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自分の感覚世界を体験する

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以前心理療法を受けた時、セラピストから、「あなたは思っていることや感じたことが表によく現れてますね!」、すごくわかりやすいと言われました。 自分で自分のことは見えないので知りませんでしたが、そうなのかもしれません。 つい最近も仲間とのトレーニングでクライエント役をやったときに、「表情に感情が現れていて、ものすごく伝わってきた!」とオブザーバー役の人に言われました。 このことは、ちょっとした驚きであり、納得でもありました。 私は子どもの頃、「何を考えているかわからない」とよく言われていました。 あまり話をせず静かで大人しかったこともあると思いますし、自分の思いが感じられ、現れてくるまで、時間がかかるほうだったこともあると思います。 また、転校を繰り返していたので、環境になじむまでの間は特に、自分のことはさておき周りのことをよく見なければならなかった(と思っていた)ことも重なっていたかもしれません。 でも恐らく、「何を考えているかわからない」と言われたことが実際の自分へ影響し、「わかりにくい私」という自分像になっていったのだろうと思います。 私が行っている心理療法のアプローチは、身体の感覚や自分の内側で感じたことに注目し、それを「ただそのまま」に感じたり見つめたりしていくことを重視します。 そのため、私自身も自分の身体の感覚や内的世界の体験に開かれていることが重要になります。 現在の心理療法のトレーニングを始める前から、ヨガは25年ほどやっていたり、大学院のころから、身体や身体的体験のワークショップやトレーニングにたくさん参加してきました。 きっと無意識に関心が続いてきたのだと思います。 そして現在の心理療法のトレーニングを受け始めたころから、より意識して、より積極的に、注意を向けたり、感じることをしてきました。 そうして、いつの間にか、自分の感覚や世界を、自分なりに感じ、自分なりに体験するようになり、それが自然に人にも伝わるようになっていたのだということに気づき、 自分の変化に驚くような、これまでのプロセスを振り返れば納得するような気持ちになったわけです。 現代の社会で生きていく上では、早いスピードで考え、理解し、行動に移すことに重点が置かれがちです。 また、人との関りや人からの情報が増え、多様になっているので、他者や社会の価値観が自分の中に侵入しやすくなっています。

自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた

自己嫌悪と恥②

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前回 から続きます。 自分を恥じたり自己嫌悪を感じている、と自分でもう気づいていたなら、そこへ取り組んでいくことができますが、恥と自己嫌悪のやっかいなところは、そう感じていること自体を隠してしまうところです。 明らかな過ちを犯してしまって感じる恥は、自分でも気づきやすいのですが、「自分=恥の存在」が深く浸み込んでいる場合は、次のようなことにも恥と自己嫌悪が引き起こされます。 自分への高い理想が実現されなかったり自分に課した要求を遂行できなかったとき 「エラー」範囲でしかないような通常のミス ある程度成功したりやり遂げたとき 人からの注目、視線 相手の、ある表情、ちょっとした言いよどみ、声の微妙な変化、微妙な手足の動き 自分の意見や希望を言うこと ゆっくりしていたり、手を抜いたりしたとき 楽しかったり幸せに感じたとき びっくりさせられたとき あるニュースや情報を目にしたとき 誰かに(優しく)触れられたとき これって、何でもあり、全部ですよね…。 そうです。恥が引き起こされるきっかけは、その人にとっての「何か」。 それは具体的なことだけでなく、ありとあらゆるものがきっかけになります。 自分では気づかないような、意識されないようなことも。 恥や自己嫌悪が、「恥」「自己嫌悪」としては現れずに隠れているとき、こんな感情や感覚が起こります。 不安 緊張 恐怖 遠慮 うしろめたさ 怒りやいら立ち 悲しみ 焦り 戸惑い 満たされなさ 孤独感や孤立感 無感覚(硬直した感じ) パニック こわばり、震え、のどの詰まり、早い鼓動 腹痛・頭痛、気持ち悪さ こんな感情や感覚は、決して快適ではないので、身体も心も、何とか回避したり、不快さを減少させようとすぐさま何かの反応や行動を起こそうとします。 そうしてさらに、「自分=恥」と気づかれないように隠れていくのです。 ですので、「自分は自分を恥じている、嫌悪している」「自分をこんなにも恥じているのだ」ということに気づくところまでは、結構な道のりになります。 次回へ続きます。

自己嫌悪と恥①

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カウンセリングを求めることになったネガティブな感情の中で、最も圧倒的で強力なのが、自己嫌悪の感情です。 私はダメな人間だ 私はたいしたことがない 私は誰にも受け入れられていない 私は生きている価値も意味もない 私の人生は真っ暗だ 自分や人生について、このように認識されている場合もありますし、意識されていない場合は、強い不安感や孤独感、強迫的な焦燥感、苛立ちや激しい怒り、空虚感などのような感情として体験されています。 このような状態は、「あ~やっちゃったなぁ、ダメだったなー」というような、ちょっとした自己嫌悪感とは全く異なっていて、 自分を乗っ取り、占領し、支配していき、自分=恥ずべき存在であるという自己観をつくっていきます。 そしてこの感情状態は、そう簡単には小さくなったり、離れてくれたりせず、ことあるごとに自分を完全に覆いつくすのです。 こんなふうに書くと、「なんて恐ろしいんだ~!」「もうお先真っ暗だー」と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。 なぜなら、この強烈な自己嫌悪と恥の感情は、自分を痛めつけようとする別の激しい感情や体験から自分を守ろうとしてきた結果なのであり、 そして今となっては、そういう強すぎる感情が起きそうだ!という警告の役割を担っているという側面があるのです。 最初に書いた通り、この感情はとても強烈で自分と一体化しているため、カウンセリングでの「扱い」は簡単ではありません。 でも、ゆっくりでも、丁寧に、着実に進んでいくプロセスがあります。 自己嫌悪や恥の感情を引き起こした”引き金”(きっかけ)に気づくこと。 自己嫌悪や恥の感情がどんなふうに体験されているかに注目すること。 また、こんなに苦しい自己嫌悪と恥の感情がこれまで果たしてきた仕事、今も奮闘している役割を知ること。 こういう作業をカウンセリングで行います。 次回、もう少し具体的に書く予定です。

セラピー・ジャーニー ~ぴったりのセラピストに出会う旅

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アメリカやイギリスなどの英語圏では、自分にぴったり合うカウンセラー/セラピストに出会うまでを「セラピー・ジャーニー」と言うそうです。   自分にぴったり合うセラピストを探すのは、簡単ではありません。 この動画に出ている女性・サフランは、複雑性PTSD、鬱、不安障害の診断があり、初めてセラピーを受けたのは13歳。 そして現在のセラピストまでに5人と会ってきたそうです。 まさに「出会いの旅」。 最初からぴったりと合う人を見つけられるかもしれませんし、何人もの人と試してみる必要があるかもしれません。 ぴったりだと思っていても、続けるうちに変化していくかもしれません。 動画中のセラピストによると、セラピストを判断するためのポイントは3つ。 セラピストとの関係 どのようなタイプのセラピーか テーマとする問題に適しているかどうか 日本の事情を加えると、  4.支払い可能な料金かどうか、あるいは交渉可能かどうか  5.継続の頻度や間隔が、自分の希望に合っているかどうか こういうことも含まれると思います。 思い切ってためしてみたけれどイマイチだった…というのは、労力もお金も時間もかかることなので、なかなかハードな作業です。 ですが、「1回(数回)試してみよう」というお気持ちでスタートされることは、全く構いませんし、大歓迎です。 なにより大切なのは、あなたの「旅」であること、 そしてそれがよい旅になること。 ご縁があれば、しばらくお時間を共にし、 ご縁がなくても、ひとときの出会いは大切なものと思っています。

クライエントとセラピストの関係と社会的位置~「ポラリスが降り注ぐ夜」から

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台湾出身の作家・ 李琴峰 さんの「ポラリスが降り注ぐ夜」について短いエッセイを書く機会がありました。 「ポラリスが降り注ぐ夜」筑摩書房 7つの短編が収められていて、それぞれの短編の主人公が別の物語でも関係し、7つで全体を構成しています。 主人公、そして他の登場人物も、セクシュアル・マイノリティ。 李琴峰さん自身もレズビアンであることを公表されています。 エッセイを書こうとして、はたと立ち止まりました。 私は、誰に向けて、どう書こうとしているのか? 私はシスジェンダー女性です。 シスジェンダーというのは、生まれた時に当てられた性と、自分自身の性認識が一致していることを言います。つまり、性自認においてマジョリティです。 そして、シスジェンダー男性と法律的な婚姻をしています。ここでもマジョリティ。 「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んでいると、登場人物の痛みが、それぞれの物語の中で、それぞれの形や温度で伝わってきます。 セクシュアル・マイノリティとして生きていくことの痛み。 それは、マジョリティによってもたらされた痛み。 そうして痛みをもたらしている側にいる私は、この本について、どう書くのだろう? ということが、私を立ち止まらせました。 心理療法においても、セラピストとクライエントの、それぞれの社会的背景を踏まえてセッションを進めることの重要性が指摘されるようになっています。 セラピストは、セラピストという立場自体が、クライエントよりもパワーを持っています。 それに自覚的であるために、セラピスト自身が、自分の社会的位置を表明してセッションを進めるというやり方がある、と教えていただいたことがあります。 これは、双方ともが、開かれて安全な関係を作っていくためのプロセスです。 ですので、「決まった正しいやり方」があるわけではありません。 何がよいのか、どうすればより良いのか、一緒に探っていくことになります。 先のエッセイについては、ひとまず書いたものの、モヤモヤ感は残ったままでした。 自分の様々な意味での力不足はベースにありつつ、モヤモヤ感自体が、次へつなげてくれるのかもしれない、とも思いました。 終わりにせずに、自分の中で起こっていることを見つめていくプロセス。 カウンセリングと同じだなと思った次第です。

No feeling is final:どんな感情も最終地点ではない

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リルケの詩に、次の一節があります。 すべてを経験せよ 美も恐怖も 生き続けよ 絶望が最後ではない この一節は、映画「ジョジョ・ラビット」の最後、エンドロールの直前に映し出されているので、ご存知の方も多いでしょう。 英語はこうです。 Let everything happen to you: beauty and terror. Just keep going. No feeling is final. 詩の原語はわからないのですが、英語からは、字幕とは異なるニュアンスを感じます。 字幕は、おそらく映画の展開に沿ったものなのかと思います。 こちら↓は私訳。 物事が起きるままにするのだ:美しいことも恐ろしいことも ただそのままに。 どんな感情もそれが最終地点ではないのだ。 カウンセリングは、このような時間や体験。 こんなふうに、今ここで、自分に起きている感情や感覚を、ただそのままにしていく。 深い喜びも、耐えられないのではないかと思うような悲しみや怒りも。 なぜなら、終わらない感情はないのです。 そしてその感情の向こうに、新しいものが開かれていくからです。 とはいえ、「感情をそのままに感じること」「耐えがたい感情に触れること」は、とても難しかったり、不安や恐れを感じたりします。 カウンセリングでサポートするのはここ。 あなたのなかで湧きおこったものを、ただただ大切にしていけるようサポートしていきます。

悲しみや痛みはどんなふうに癒えていくか

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カウンセリングでは、辛かったり苦しかったり、悲しい気持ちと、それをもたらした人生の出来事や人間関係などについてがテーマになります。 このような感情は、カウンセリングをすることでどのように変化していくか、BBC(イギリス放送協会)作成の動画を紹介します。 この動画は、大切な人を亡くしたことによる「グリーフ(悲しみ)」をテーマにしていますが、死別の悲しみに限らず、苦しさ、痛み、怒りなども、同じプロセスを進みます。 「設定(歯車マーク)」→「字幕」→「英語(自動生成)」 →もう一度「設定」→「字幕」→「自動翻訳」→「日本語」を選択 こうすると日本語の自動翻訳が表示されます。 自動翻訳の日本語が少々ぎこちないので、私が訳したものを記載します。 「悲しみ」を、「苦しみ」「痛み」と読み替えてもみてください。 悲しみ(グリーフ)がどのようなものか説明しましょう。これ〔円〕をあなただとイメージしてください。 あなたの人生は全てこの円の中にあるとします。これがあなたです。 大切な人が亡くなると、その悲しみに影響を受けない部分はありません〔円の中の模様〕。 あなたの全てが悲しみでいっぱいになります。 この悲しみは、次第に小さくなっていずれは無くなっていくとされていましたが〔円の中の模様が小さくなってだんだんフェードアウトしていく様子〕、 現在では、残ったままではあるものの、それを中心に人生が広がっていくという考えに変わってきました。 人生にはたくさんのことが起きていきますが、その悲しみは私たちの中に留まります。 特定の日時、命日、誕生日、クリスマスなどになると、悲しみに引き込まれたりしますが、 その日が過ぎると、今では人生の一部なのだということを思い出します。 この悲しみは、永遠に暗くて黒いまま留まっているというわけではないとも考えています。 あなたの中に留まったままではありますが、形が変わったり、ぼんやりとして感じられたりします。 そうすると、悲しみで動けないままということなのでしょうか?悲しみからは回復できないということでしょうか? いいえ。悲しみをあなたの人生の一部として抱えながら生きていくということを知るようになるのです。

緊張感をほどく~災害や事故などの後で

2024年。 新しい一年が始まりました。 今年はお正月から大きな地震が襲いました。 被災された方、地震の影響を受けた方には、心よりお見舞い申し上げます。 寒さが厳しくなっていく中、一日も早い安心と回復を願います。 地震は、私がいた場所でもけっこうな揺れがあり、しばらく気分が悪くなりました。 阪神淡路大震災以後、ほんの少しの揺れでも身体が反応するようになりました。 身体が緊張し、こわばり、本来ならすぐに身を守る行動をするべきなのですが、すぐに動くことができません。 頭ではわかっていることですが、身体が即応しないのです。 「あれほどの地震はそうめったに起きないだろう」という過信が頭にインプットされてしまっているのかもしれません。 直接の被害がなくても、揺れなどによって身体が反応したり、 ニュースの緊迫感が伝わってくることで、緊張感が高まったりすることがあります。 「今」が安全で大丈夫であれば、その緊張感などの身体の反応は、ある程度したら回復し、元の状態に戻れるのですが、 ふだんから緊張感や不安感が高かったり、敏感に感じやすい人は、なかなか元に戻りにくい傾向があります。 緊迫感自体は、安全確保のために必要な反応なのですが、「大丈夫」なはずの状況にいてもその緊迫感が持続してしまうのです。 そうすると、「今は大丈夫じゃないのだ!」「こんな苦しいのはもう無理だ!」「もう私は終わりだ!」「死んでしまうかもしれない!」 という絶望的な気持ちになっていくこともあります。 こういうとき、 安全確保のための情報収集として必要がない限り、ニュースや情報から一旦離れましょう。 「今、ここ」は安全で、危機は起こってないということを身体で確認しましょう。目に入るものをいくつかしっかりと見たり(「本がある」「マグカップがある」など)、座っている床や椅子などを感じてみましょう。 身体に緊張感を感じられていたら、その部分を動かしてみましょう。わざと力をギューっと入れて、パッと抜いてみるのでもOKです。 もう少し大きな動きや大きな呼吸をしてみてもいいと思います。立ち上がって歩いてみたり、大きく息を吐いたり。 ここまでくると、気分や緊張感に変化が起きているはずです。 カウンセリングでは、こういうプロセスを一緒に行っています。

孤独がつのる12月に

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12月。 クリスマスや年末年始の行事が、社会を華やかな雰囲気や忙しい空気感にする時期。 寂しさや空しさは、そんな中でより一層強く感じられます。 辛く苦しい時は、明るいもの、華やかなもの、優しいものさえ、 苦しみをより一層強く、悲しみをより一層深くさせます。 孤独は、近代が生み出した感情だそうです。 宗教や共同体からの解放によって、「個人」が生まれたこと、 自由を得たことで、「個人」として孤立することになり、 孤独はそこから必然的に生まれたという考察があります。 情報があふれ、SNSで知らない人々の様子さえ自分の世界に入りこみ、 「自分」でいるために、より多くの消費や、より強いパワーが必要となり、 人との交流でさえ、自分を価値づけるものになってしまっていて、 孤独感を埋めようとしても、その深い穴を埋めるために疲れてしまう。 今はそういう時代のように感じます。 このブログに辿り着いてくださったのは、心のどこかで深い孤独感を抱えているかもしれません。 まずは、辿り着いてくれてよかった。 そして読んでくださってありがとうございます。 私は寂しさが押し寄せるときはたいてい、自然の中へでかけます。 今の時期は、木は葉を落としていても、次の小さな芽吹きを見つけることができ、 川はただただ流れる。 鳥たちも、いつものように餌をさがし、毛づくろいをし、羽を休めていて そういう「いつもと変わらなさ」の中にいることで、孤独感を心の箱に静かに収めていける感じになります。 誰もが孤独から逃れられない今の時代の中、自分なりの過ごしかたが、読んでくれたあなたにもありますように…。 【参考】 新矢昌昭(2001),近代における孤独の誕生, 佛大社会学 第26号 フェイ・バウンド・アルバーティ(2023), 私たちはいつから「孤独」になったのか, みすず書房