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あなたの心に響く言葉

ブログを書き始めてから、書くことや文章、言葉についてよく考えます。 小説、エッセイなどを読んでいて、スルリと入ってくるものもあれば、どうにも引っかかってしまうものもあったり、 じんわりと響いて余韻が残るようなものや、心の中の本棚にそっと大切に置いておきたくなるようなものもあれば、 要点だけ掴んで読み飛ばしていくものや、途中で止まって放置しているようなものもあります。 X(Twitter)のほんの短い文章でさえ、不思議とその人の「質感」が現れていて。 どうしてなのかなぁと、 好きな文章と、そうでもない文章に触れながら、どう違うのかしばらく考えていました。 今のところ浮かんでいるのは、私は、書かれている内容ではなく、その文章からその人自身が感じられるかどうか、 書き手が、文章によって自分自身を隠すのではなく、文章によって自分自身を現わしているかどうか、 文章がその人自身かどうか、 ということに反応しているようだと気づいてきました。 こんなふうに感じるようになったのは、カウンセリングでの経験からなのだと思います。 カウンセリングは、二人で言葉を交わすことで進んでいきます。 カウンセリングにおいて、カウンセリングが「意味あるもの」となるのは、 「何について話したか」という内容よりも、 語られた言葉が「まことの言葉」なのかどうか 言葉と言葉の間にあるものもまた、「まことの間」なのかどうか 言葉を交わす二人の間がつながっているか 「意味あるもの」になるやり方や"タイプ"は、クライエントさんによってそれぞれ。 自分の中から言葉をじっくりと紡ぎ出すようなプロセスもあれば、 いろいろ話してみながら、そこからだんだんと浮かび上がってくるプロセスもあったり。 話してよかったなぁ 言葉になってよかった… こういう体験になったらと思いながら、 わたしもまた一緒に言葉を味わいたいと思っています。

「わかってもらえた」と感じられるまで

クライエントさんにとって、「わかってもらえている」と感じられることは、何よりも大きく、大事なことです。 私自身もクライエントとして、あるいはスーパーバイジー(指導者からカウンセリングについての指導を受ける者を「スーパーバイジー」と言います)として、「わかってもらえている」と感じられることがどれほど重要か実感します。 そういう自分自身の経験も踏まえて、私がカウンセラーとして日々思うのは、クライエントさんの忍耐力への感謝です。 自分の思いを、傷つきや苦しみを、自分自身を、それをまだ知らない私へ伝えようと頑張ったり、努力したりしてくれていること。 自分なりのやり方、自分なりの言葉を探ってくれていること。 それをするのに力を使い、気をつかい、頭も身体もつかっていること。 「わかってもらえていない」と感じる苦しさ、哀しさ、難しさ、空しさ、孤独感がありながらも、見切りをつけずに続けてくれているとき、 私のカウンセリングを受けることによって辛い気持ちをCLさんが感じることに、私もまた苦しくなり、恥じ入る気持ちが大きくなります。 同時に、踏ん張ってくれているその思いに応えたいという思い、 踏ん張ってくれていることへの深い畏敬と感謝があります。 私への不満や怒りをはっきりと出してくれたならば、それは私にとってとても助かりますし、有難いことです。 修復への糸口を提示してくれたのですから。 何となくのような違和感や居心地の悪さをCLさんは感じてるのではないか…、と私の方がつかめたとしたら、それを大事にしたい。 「わかってもらえた」という体験は、それ自体がカウンセリングでとても重要ですが、 そこへ至るまでのプロセスも重要です。 「わかってもらえた」という体験へ至るまでに、どれほどのエネルギーをクライエントさんがかけているだろう、 それをいつも心に置いています。

自分のままでいられる世界へ ~絵本「ボルカ」から

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今回はジョン・バーニンガムの絵本、「ボルカ」(ほるぷ出版)を取り上げたいと思います。 ガチョウの夫婦に6羽の子どもたちが生まれましたが、そのうちの1羽のボルカには羽が全くはえてきませんでした。 お医者さんガチョウに診てもらいましたが、羽がないこと以外はどこも悪くありません。 羽がなくて寒いボルカのために、お母さんガチョウは羽を編んで着せてやりました。 でもそれを他のきょうだいたちは笑い、いじめました。 一緒にいたくないボルカはひとり隠れていたので、泳いだり飛んだりすることを覚えられませんでした。 忙しいお父さん・お母さんガチョウは、そんなことが起きているとは知らず夏が終わり、ボルカがいないことに気づかないまま、暖かいところへ旅立って行ってしまいました。 ここでは、障がい、そして、いじめ・虐待というテーマが連想されます。 先日参加したビブリオバトルで「ボルカ」を紹介された方は、「こんな経験をした人がいるんじゃないか、ボルカのような気持ちになったことがあるのではないかと思います」と言っていました。 お母さんガチョウはボルカのために羽を編む〝親心”は持っていますが、ボルカの痛みは知らないまま。ボルカを深く支える存在として描かれていません。お父さんガチョウも心配してお医者に連れて行っただけ。 きょうだい間でのいじめは親の無関心・無関与によって起きているさまが現れています。 「みにくいアヒルの子」と違う「ボルカ」のお話の魅力はここからです。 ひとり残されたボルカ。 とぼとぼと歩いていくと入り江に泊まる船が見えます。 雨をよけるために船に乗り込んだところ、犬のファウラーに吠えたてられました。でも事情を知ったファウラーは吠えるのを止め、ボルカを寝場所につれて行ってあげました。 ボルカは船乗りたちとも仲良しになり、一緒にロンドンまで行くことになります。 家族に置いていかれたひとりぼっちボルカでしたが、育った場所を離れていったことで、新しい出会いがありました。 ファウラーに吠えたてられるという命の危険にさらされながらも、話をすることで船の仲間になります。 これまでとは違う存在、これまでとは違うやりかた、 そこから新しい方向が開かれて行きます。 ロンドンに着き、船長はボルカを キュー植物園 に連れて行きました。 ガチョウだけでなく、いろんなかわった鳥たちも一緒に暮らすキュー植物園。だれ

自由な感情⇔止まってしまう感情②

前回からの続きです。 こんなふうに「自分」「私」という監督官と感情との間で起こる動きや流れが、ときに緊張をもたらし、監督官に打撃を与えてしまうことにもなるようなとき、 助っ人を読んでみましょう! 人間関係でも、仲良しでラブラブなときは二人きりでいたいものですが、不穏な雰囲気のときは、居心地が悪くなってきます。 相手と正面から向き合うのはキツイ。 関係が危機的なのに逃げることもできないときに有効なのは、第三者! 「身体(感覚)」にご登場いただきましょう。 その気持ちが起こっている時、 あるいは、そのことを考えていると、 身体にはどんなことが起きているのでしょう? こんなふうにして身体に登場してもらいます。 身体は、 「お腹が痛い」とか「胸がドキドキする」などのように、生理的な感覚として、 「喉がつまる」「肩に重しが乗ってるように重い」のように、生理的な表現があるイメージとして、 あるいは「胸のモヤモヤが煙のように充満している」「身体に丸い玉があって冷たい」のように、イメージそのものとして体験されることもあります。 身体に登場してもらうと、感情によって圧倒されそうだったり、批判されて苦しく逃げたくなっている監督官は、不思議と落ち着きを取り戻します。 まるで、身体の登場によって逃げ場ができたような。 今、身体はどんなふうだろう?と観ていってあげると、 身体に起こっているいろいろなことをメッセージとして受け取っていけるようになり、 そうすると、「感情」はそのパワフルさを自然とトーンダウンして、待っていてくれるようです。 しだいに監督官は落ち着きを取り戻し、自分のペースでいられるようになります。 こうやって、 「感情」から「身体」へ注意をシフトしていくこと、 そして、注意をシフトしていったことで、観察力を維持できている「自分」「私」。 これが「主体性」。 (やっとテーマである「主体性」の言葉が出てきました!💦) そして大事なことがもう一つ。 この「自分」「私」は、いつも身体を観ながら落ち着いていられていることによって「自分」「私」でいられているのではなく、 感情に圧倒されそうになったり、感情をスルーしようとしていても、 そのたびに気づいて、 「身体はどうかな~」と観ていく。 ただただ、この繰り返しをするのでOKなのです。 そう。カンペキな監督になんてなれないし、なる必要はな

自由な感情⇔止まってしまう感情①

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辛い気持ちにはいろいろなものがあります。 例えばとても悲しいとか、すごく腹が立つとか、強い嫌悪感とか どんどん膨らんで襲ってくる不安感、自分はダメで不十分な人間だと思う自己否定感 人を羨やみ嫉妬でイライラする気持ちや、孤独で孤立無援の恐怖感… 「辛い気持ち」としてまとめられるこのような感情の中で、 その気持ちがどんどん膨らんだり大きくなったりして、自分を圧倒してくるようなものと、 逆に、少し感じたものの、いつの間にか小さくなって、モヤモヤだけが残るような感情があるのではないでしょうか。 喜びや満足の気持ちもいろいろあります。 喜び、愛、希望、誇りや達成感、やすらぎ、感謝、興味(ワクワク)、やる気や興奮、楽しく愉快な気持ち、感動、スッキリさわやかな感じ。 このような感情の中でも、その感情を自然に感じられるものと、 少し感じたりはするけれど、大きくなってくると止めてしまうような感情があります。 感情が、ネガティブかポジティブかに関係なく、感情が勝手に(あるいは自然に)大きくなるタイプのものと、勝手に小さくなるタイプのものがあります。 感情のこんな動きに関わっているものは、自分の中にありまして、 それを「自分」や「私」と名付けてみましょう。 「自分」や「私」は、感情に対する監督官。 「自分」や「私」にとって必要だと判断した感情はGOサインを出し、逆に不必要だと判断すると、STOPサインを出します。 STOPサインにはいろいろあって、 「それを感じるのは止めといたほうがいい」ぐらいのマイルドなものから、 「そんなことを感じてはヤバい!危ない!よくない!」と命令するものもあったり、 まるでサブリミナルかのように隠れて働かせるようなサインもあります。 監督官にとって、自分のマネジメントが上手くいったかどうかは重要です。 監督官が抑え込みたいタイプの感情がたくさん現れているのは、「負け越し」。 この失敗のダメージは監督生命にとって致命的になります。 抑え込みたいタイプの感情は、こんなふうに、監督官としての評価基準となります。 図にしてみるとこんな感じ↓ はてさて、監督官には勝機はあるのでしょうか? あるとしたらどんなふうに? また長くなってしまったので次回に続きます。 前回までの記事で取り上げた「主体性」をテーマにしているはずなのに、「主体性」の一言も出てこないままですが、一応ち

心理士の急性神経症状体験記④ ~「主体」としての「私」がしていることは?

これまでの3回の記事で、私の個人的な体験をもとに、身体とその反応について書いていきました。 テーマはこちら。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている 自分の身体に対して、①はコントロールする、②はコントロールを止める、という、身体と意思について真逆のことを言っています。 でも、共通することがあります。 それは、「主体」。 呼吸を調整するなど、身体や反応をコントロールしようとする「私」は、今、自分の身体はどんな状態なのかに注目し、意図的に身体へ働きかけをし、その働きかけがどんな変化をもたらしているかを観ています。 うまくいっている感じがあったら、それを続け、変化を見届け、 うまくいってないようだと感じたら、違う方法を試してみて、それがどう変化をもたらしているか観ています。 また一方で、前回の記事のように、身体に起こっていることをながめている「私」が、身体が求めているほうへ、動きたいほうへ身体にまかせていき、 身体に起きていること、身体が反応していることを、ただそのままに感じていきました。 どちらの「私」も、行っていたのは身体との対話(コミュニケーション)と言えます。 「私」は自分の身体を対象物のようにして観て、気づき、 身体を中心にしていく。 「私」に「」を付けているのは、 (痛いな~)(辛いな~)などと思って不快な気持ちや嫌な気持ちになっている〈私〉ではなく、 自分(身体)に起きていることに、「あー痛いんだな~」「あ~辛い気持ちはこんなふうに感じているなー」「私は嫌な気持ちになってるなぁ」と、ただ気づき、 それをただ眺めていたり、あるいは呼吸を調整してみたりする「私」。 こんなふうにしている「私」を「主体」という言葉に置き換えています。 これまでの記事で書いてきたように、突然の事故での症状や反応を自分なりにやりすごしたり、変化を起こしたりするのに活躍したのが、「主体」でした。 「主体」。 これは、カウンセリングの中でも、とても重要なポイントです。 これまでのテーマと切り替えて、次回は「主体」についてもう少し書きたいと思います。

心理士の急性神経症状体験記➂ ~身体の記憶・身体の叡智

前回からの続きです。 治療は数日で終わり、無事に退院することができましたが、帰宅しても「ぼんやり」した感覚が続いていました。 だいたいは大丈夫だったのですが、何となく「本調子」ではない感じ。 そして、救急病院へ行ってから治療を受けるまでのことが繰り返し繰り返し思い出されていました。 こういう状態は、衝撃的な出来事を経験した後に生じる、自然な反応です。 そういう中、身体の反応や感覚に焦点を当てるトラウマ治療の心理療法のトレーニングで、クライエント役としてこの出来事を取り上げました。 心理療法のトレーニングでは、参加者がセラピスト役やクライエント役を実際に体験し、練習を積み重ねます。 「死なずに回復できたなら、この経験はトレーニングの練習の恰好のネタになる…」 救急救命センターに到着した時にボーッと考えたことを実現するチャンスです。 この心理療法(センサリーモーター・サイコセラピー)は、身体の感覚や動きなどに意識を向け、トラウマ反応となった心身の状態を変容させていきます。 練習のセッションで私は、自分の身体に何が起きているかに意識を向けて行きました。 初めは、身体がどんなふうかを観ていきます。 力が入らないような感覚、逆に力が入っていたことへの気づき。 それから、身体が求めているほう、動きたいほうを探っていきました。 頭の後ろにクッションを置いて、椅子の背にしっかりともたれかかると、大きな息が出てきました。 クッションが私に、「ゆったりしたほうがいい」と言っているのを感じました。 身体全体の重み、手の温かさがジーンと感じられ、 表情も身体も緩んでいきました。 すると右ひじ周りにピリピリした感じが出てきて、それがサーッと抜けていきました。 そのとたん、その場所から感情がサワサワと広がってきて、涙がこぼれました。 「怖かったなぁ…」と涙が言っていました。 思わぬ出来事で緊張が続いていたことに自分で気づかないままでいた中、 やっと出た涙でした。 また一つ大きな息。 すると、自分の身体の実感が戻ったことに気づきました。 身体も心も、変化した、ということを感じました。 自然な感覚、いつもの感覚が甦ってきたのがわかりました。 医学的な完治とは別の、身体経験としての「完治」。 「完治」というよりは「完了」や「変容」と言ったほうがよいかもしれません。 恐怖や緊張は、こんなふうに身体に留

心理士の急性神経症状体験記② ~不安と身体の深い関係

前回 は、過呼吸に傾く状態を自分なりに呼吸調整し続けたことについて書きました。 過呼吸に傾きやすい動悸は、この後数日、断続的に起きましたが、動悸が急激に激しくなる時がありました。 それは、先生が「怖いこと」を言った時。 「死ぬでー!」(関西弁) (注)そのくらい農薬曝露はヤバイんやでという意味。 「人工呼吸器を入れるかもしれへんからな~」(関西弁) (注)そういう可能性も事前告知しとくで、という意味。 こういうことを聞いた瞬間、動悸と不安感が一瞬にしてブワッと全身を覆いました。 心臓がバクバク。 モヤモヤしたような不安ではなく、アラートが大音量でなっているような不安の感覚。 命の危機に直面したときの反応のような感じです。 えっ?思ってたよりずっと悪いかもってこと? 私、気楽に考えすぎ?? 人工呼吸器ってー!?、ナニ?ナニ?いったいどうなるわけ??? 不安な考えが広がりそうになるとき… それはあまりにもわかりやすく、身体の反応と同時に起き、広がりました。 ですから、この不安感は身体の反応そのものだと思いました。 ということは、ある程度調整できるはず。 「不安なことは一旦置いといて、まずは身体を調整しよう。」 呼吸困難は曝露直後ほど強くなくなり、むしろ動悸(心拍数の増加)が強く感じられたので、ヨガで行ってきた呼吸「鼻から3カウントで吸い、一旦止め、6カウントで吐く」を繰り返しました。 繰り返すうちに、不安感のほうは比較的早く収束してくれたのです。 動悸がある程度のところまで落ち着くのは、30分~1時間ぐらいかかったでしょうか…。でも気長に呼吸法を続けていました(ほかにすることもないし)。 動悸が鎮まるのに呼吸法が役立ったかどうかはわかりませんが、異常な不安感が比較的すぐに消えてくれたことには役立ったと思います。 そしてこの時も、自分なりに対処できるという気持ちを維持することができました。 幸いにも治療は順調に進み、症状がぶり返すことなく回復し、スムーズに退院できました。 ここで記述していることは、農薬中毒の対処法ではありません。 治療は薬剤によって行います。 ヒトは、いつもとは異なる状態、それが急性で急激だと、覚醒反応が起きます。逆にフリーズ反応が起きる場合もあります。 どちらも神経が引き起こす状態です。 私が経験したのは、それが中毒症状として生じた上に、環境要因(先生

心理士の急性神経症状体験記① ~日々の身体自己調整はこんなふうに役に立つ!

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8月にブログ更新が空いてしまっておりましたが、理由の一つが緊急入院でした。 短期間で退院でき、後遺症などもなく現在はすっかり元気です。 救急救命センターに到着して、テキパキと処置が行われている中、意識ははっきりしていたので、「死なずに回復できたなら、これはネタになる…」とぼんやり思っていました(職業魂?)。 結果的に回復した今、とても興味深い体験だったので、次の二つのテーマで書いていきたいと思います。 ①身体とセルフ・コントロール  :身体のなすがままではなく、自分でコントロールする ~普段の自己調整は土壇場で発揮される! ②トラウマとなる出来事と回復  :自分の気持ちや考えによってではなく、身体に委ねていく~身体はトラウマからの解放のすべを知っている ①と②は、身体と意思について真逆のようですが、共通することがあります。これは後のブログで書いていきたいと思います。 私が救急搬送されたのは、農薬曝露によって神経系へ作動した急性症状のためでした。 まず初めに、血の気が引くような、高熱が出る前の悪寒のような感じがして、それから呼吸が早くなり、加速していきました。 この時は何が起こったのかわからないままでしたが、後から調べると、この農薬による中毒はすべての神経系に作動して症状を引き起こすものでした。具体的にはこんな症状です(一般的にわかりやすい言葉で記載しています)。 ※神経については 中外製薬(株)のWebサイトにわかりやすい説明 がありましたので、ご興味あるかたはリンク先へどうぞ。 初めに起こった強い自覚症状は、動悸、呼吸数増加(呼吸困難)、発汗でした。 肩で速い息を繰り返しているうちに、手足にしびれが起き、硬直してきました。 も、もしかして農薬が身体に回ってきた?!?! このとき救急病院にいたのですが(※)、「うちでは対応できない」と言われ、病院側も対応に困っている様子だったので、私は不安とストレスが強くなっていたところでした。 「別の病院へ行くべきなら行くから、早く言ってよー。一体どうすればいいのよ~(泣)。」 症状は立っていられないぐらい強くなっている上に、不安と恐怖感がせり上がってきたとき、ふっとあることが浮かんだのです。 これは過呼吸と同じ状態ではないか? 手足がしびれてきたのは、農薬ではなく過呼吸による可能性があるのではないか? 呼吸によって起きているなら

点と点は「つなぎ合わせる」だけじゃなく、「つながる」

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 スティーブ・ジョブズがスタンフォード大学卒業生に送った伝説のスピーチ、3つのテーマの一つ目、「点と点をつなぎ合わせる」をご存知の方も多いでしょう。 将来をあらかじめ見据えて、点と点をつなぎあわせることなどできません。できるのは、後からつなぎ合わせることだけです。だから、我々はいまやっていることがいずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。( 日本経済新聞より ) 60歳代、70歳代のクライエントさんとのカウンセリングでは、これまでの自分の在り方や生き方に疑問を感じ、その苦しみや哀しみを語り、「残りの人生の私、その生き方」を見つめようとする、というテーマが多くあります。 老年期が視界に入ってきた私も、「将来」という時間軸への考え方や自分の在り方が変わってきたのを感じることが多くなり、 世の中にあふれる「未来」ではなく、「残りの時間」というような感覚や思索のほうが、私にはよりリアリティをもって感じられるようになってきました。 こういうなかで感じるのは、「点と点」は、つなぎ合わせていくものだというだけでなく、「つながる」ということです。 点と点をつなぎ合わせるという能動的な動きは、これまでの点をつなぐ力がついてくる年齢期であったり、 またあるいは、スティーブ・ジョブスのような、社会を変革するほどの能力をもった人がなしえることなのだろうと思います。 スティーブ・ジョブスのスピーチは大学を卒業する若い人たちへ向けたものですから、「今は点でいいのだ、後からそれをつなぐのだ」というメッセージは意味があります。 たいした「点」も積み重ねなかったなぁという後悔を抱え続け、数少ない薄い点でさえつなげていく力を発揮することもないままに中年期を生きている私が、 ビジネスやキャリアとは全く無関係なことも含めて、 これまでの「点」がふっとつながって、ただの点だったものが全く別の「点」として見える思いをすることが時々あります。 それは深い感慨を感じる体験です。 人生の「残り」に思いを馳せるクライエントさんたちとのカウンセリングで紡がれる物語は、点と点がつながっていくプロセス。 それはつなげようとしてつながるのではなく、意志とは離れたところで起きる現象です。 「つなぎ合わせる」は、きっと、達成感や自信、力を感じるような体験ですが、 「つながる」は、しみじみとした感慨や味わい、深