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声を受け止める。

「声」シリーズのブログ、これまでは、なかなか言葉にならない、声にならないことについて書いてきました。 その一方で、一方的に“持論”をぶちまけるような人もいます。 自分の意見や考えを、他者の隙入る間がないような強い勢いで語り、ただ自分の意見を通そうとしているだけように見えます。 こういう人に出会うと、私は黙ってしまうことが多いと思います。 クライエントさんにも、精神的虐待をする親、モラハラのパートナーや上司などから高圧的に一方的に言われて、自分の思いをちゃんと言えないことを苦しく感じていたり、言い返せない自分を不甲斐ないと責めてしまう人がいます。 これは言い返せない方の問題ではありません。 それは、対話ではないからです。 対話は、声をぶつけるものではない。声を届けるもの。 一方的な人は、対話の経験がないのかもしれない、と思った経験がありました。 大学院のとき、海外のドラマセラピーの先生の特別講義に参加しました。 ドラマセラピーは、文字通り、演技を通してのセラピー。 その先生はホロコーストの生存者家族なのですが、ホロコーストの被害者と加害者の対話の方法としてドラマセラピーを行ってきた方でした。 戦争の被害と加害をテーマにしたその特別講義では、会場からの語りを受けて、ステージ上で、プレイバックシアターが行われました。 プレイバックシアター :観客や参加者が自分の体験した出来事を語り、それをその場ですぐに即興劇として演じる(プレイバックする)独創的な即興演劇。芸術的な側面を持つ一方で、その場で演じるもの(アクター)、語るもの(テラー)、観るもの(観客)が互いにつながり合い、「自分のことを語る、他者の気持ちを受け止めてそれを味わう、そしてそれらを表現する」ことを通して、共感や知恵、勇気や癒しをも、もたらされることになる。そのため、劇場の舞台はもちろん、ワークショップや教育の場、臨床や治療現場など広く活用されている。(Wikipediaより) 何人かの即興演劇の後、私のすぐ近くの高齢男性が指名されました。講義の初めから何度も手を挙げて語るチャンスを求めていたその人は、ようやく手にしたマイクに向かい、とても強い勢いで、日本の侵略戦争を正当化する話と、韓国・朝鮮への攻撃を語りました。ヘイトスピーチそのものでした。 私は、怒りで打ち震えながら、涙が流れていました。すぐ近くに、知り合い

声を自由に出させてあげる

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今年の初めから、声を出すことを日々続けています。 話すのではありません。また、歌を歌うというのでもありません。 ただ声を出すこと。声が音になっていくこと。 最近のお気に入りはこちら。 「サレガマパダニサ」はインドの「ドレミファソラシド」です。 歌手でボーカルトレーナーのVarsha Singh Dhanoaさんに続いて、声を出していきます。 彼女の声の出し方は、ソフトで無理がなく、自然な感じ。 私は歌うことにあまり興味がなく、歌うこと、ハミングすることさえもほとんどありませんでした。 カラオケも、誘われれば行くという程度。お付き合いの範疇です。 でも歌を聴くのは好きです。気持ちよく歌っている人を見ていることや、その声を聴いていることが好きです。 なぜ歌わないのかを振り返ったとき、「音痴だ」とよくからかわれたことや、学校の音楽の授業の堅苦しさなどが、これまでたくさん積み重なっていたことに気づきました。 小さい時は、テレビを見ながら踊ったり歌ったりしていたそうです。でもどこかの段階で、歌うことも踊ることもぴったり止まりました。 自分の声も全く好きになれず。 自分の声や歌からできるだけ遠くに自分を置いてきたと思います。 私はこれまでいかに自分の声を無視し、放っておいたのかということに気づいたこと、 それが、「声」に注目することになったきっかけです。 声を出すことを続けているうちに、喉に力が入って、喉が一生懸命声を出そうとしていることに気づくようになりました。 声が出てくるのではなく、声を出そうとしていたことに。 歌にすることではなく、「歌」の通りに音を合わせようとしていたことに。 これは、私の内側から出てくる「声」そのものではない。 力んだ喉がデフォルトになってしまった私は、私の身体は、自分の声を自由に出させてあげることをすっかり忘れてしまっています。 掲載の動画のVarsha Singh Dhanoaさんの声に合わせていると、喉の力が抜けやすくなってきているのを感じます。 力みに気がついたら、喉の力を緩め、身体をほどき、身体が無理ない感じで、そこから自然と音が出てくるような感じを味わうようにしています。 声は、その人のすべてがあらわれます。 その人のリズム。思い、感情。 存在そのもの。 私はまだ、自分の声を自由に出させてあげられていないなぁと感じています。 今は、自分の

思いを声にすること

クライエントさんの内側にたくさんの思いがあるけれど、それが言葉にならないとき。 言いたいことはあるけれど、言葉にして言おうとすると止まってしまうようなとき、 クライエントさんの身体では、それが喉に現れることが多くみられます。 「喉に何かが詰まった感じがします」とか、「喉が締め付けられる感じです」と語ってくれます。 喉は、ギュッとした緊張感が現れたり、ゴクリと飲込む様子があったりします。 思いをまだうまく言葉にして伝えられない小さい子どもは、大声で泣いたり、大きな動きが出たり、叫び声のようなもので表したりします。 子どもが身体全部を使って表そうとするエネルギーは、大人になると、喉まわりに集約され、締め付けや詰まりとして現れているのかもしれません。 それは、思いを自由に、声にして出すことができないということを象徴しているようでもあり、身体に刻み込まれているようでもあります。 出したものを、思いっきり拒否されたり、 出しても相手に届かなかったり、 出すと批判された経験や、 出したらひどい目にあった、など そうすると、思いが現れることはネガティブな経験として記憶されるでしょうし、そういう思いを繰り返さないよう、思いが出ようとするのを喉が全力で止めるのも道理があります。 喉は、「危ないよ!」と、まるで門番のように注意深く守っているイメージがわきます。 そういう意味では、喉まわりは、これまで一生懸命頑張ってきてくれたのですよね。これ以上危ない目にも、辛い目にもあわないように…。 でもカウンセリングでは、その緊張を解きほぐし、内側にあった思いを、自分の言葉で、自分のペースで、自分の声で出していくことを応援しています。 そうやって出てきてくれた声は、クライエントさんそのものであることが、聞いている私にもしっかり伝わってきます。 思いがのった言葉、その声は、目には見えないものですが、確かに「ある」のです。 聞いている私にも伝わり、私も感じるその確かさは、「あぁ!!!」と腸(はらわた)に響くというか…、これを言葉では表す能力がないことが悔しく残念です~。 「言いたいこと」の内容よりもむしろ、クライエントさんの内側から立ち現れてきたものを、ただそのままに表出したとき、 それが「本当の声」。 クライエントさんが、喉を解放/開放し、声を自由に出させてあげるという体験。 私も現在挑戦中です。次

カウンセリングにおける「声」

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カウンセリングにおける「声」。 いろいろな側面を取り上げたいと思うので、何回かに分けて書こうと思います。 今回は、声の響きについて。 「声」はカウンセリングにおいて、とても興味深い要素です。 声は、発する人が、発する響きを身体で感じながら、同時に、耳から聞こえてくる音としても身体で感じています(音は波動なので、皮膚でも感じ取っています)。 また同時に、その声は聞き手に届き、聞き手の身体で感じます。 こうやって身体で感じ合う声は、話している内容以上に、身体に響きとして(また無音または間として)体験されています。 クライエントさんがある出来事を話しているとき、 私がクライエントさんに何かを伝えたとき、 意味として理解するだけにとどまらず、声の音の感じにも注意を向けながら、ゆっくりと聞いてみると、また違う体験が起こることがよくあります。 少しペースを落として、声が身体で響く様子、耳から聞こえてきて、身体に浸み込む様子、 大切な「ことば」については、こういう体験をしてみると、驚くほど違う体験になることがあります。 こういうときは、身体を、聞こえてくるもの・響いてくるものに預けていくような、そういう感じで、ゆっくりと行い、それを私はサポートしていきます。 このテーマについて、別の視点からも取り上げてみましょう。 以前、乳幼児健診における心理相談をしていたことがありました。 お部屋には、子どもが自分で手を延ばして手に取れる高さに絵本が数冊置いてあります。 どれも子どもに読み継がれている絵本なのですが、人気の1冊が、「もこ もこもこ」(谷川俊太郎・作、元永定正・絵)でした。 なんとも不思議な絵本なのです。 シンプルな形、明白な色彩と、短いオノマトペだけ。 子どもに読んであげると、どの子も食いつくように見て/聞いています。 カバーや紙が薄手なので、子どもが思い余って破ってしまってボロボロになっていました。 作者の谷川俊太郎さんが朗読している動画はこちら。 この絵本を読むとき、私は全身で読みます。絵と音に浸り、「しーん…」と言うときは、身体も「しーん…」として止まっています。 「もこっ」と言うときは、お腹から何かが出てくるような。 身体から読み上げる声の響きが子どもにも伝わっていきます。 この絵本で体験されることは、物語の言葉での内容ではなく、声と色彩の感覚世界。読み手のオノマトペの

カウンセリングが合わないと感じたとき

カウンセリングを始めてみたものの、満足できない、止めたいと思われたとき。 せっかく勇気を出してアクセスしてくださったのに、ご希望に添えなかったことは、大変心苦しく、本当に申し訳なく思います。 その感覚は大切にしていただきたいですし、どのような選択でも応援したいと思っていますので、中断や中止もしっかり受け止めたいと考えています。 カウンセリングには様々な治療方法があり、それぞれ異なる特徴があります。 一般の方にはとてもわかりにくいことですし、選択しづらいことでもありますので、無料コンサルテーションでご希望を伺い、それに合う心理療法の選択肢をご説明させていただきます。 これは、目的地までのルート選択というイメージです。 カウンセリングでもう一つ重要な点が、セラピストとの相性です。 これは、目的地までの同伴者のイメージです。 クライエントさんが、「違うルートがいい」と思ったり、「もっと自分に合った同伴者を探したい」と思われたならば、それを応援したいと思っています。 カウンセリングの効果において重要なのは、ルート選択以上に、同伴者であるという効果研究の結果があります。 カウンセラーの私は、クライエントさんのペース、歩き方、リズムや呼吸などに合わせていきます。 特に、クライエントさんの身体や気持ちに合わせていくことを心がけています。 「早くたどり着きたい!」と気がせくときは、その思いは大切にしつつ、身体やこころが自然に進んでいくようなペースを一緒に感じていきたいと考えています。 ですが多くのクライエントさんは、自分自身のペースやリズムではなく、他者(カウンセラー)のペースやリズムに合わせようとします。 これは、日本文化的な側面もありますが、それ以上に、一生懸命人に合わせようとしてきたり、人に合わせなければ生きていくことが困難だった、ということがあります。 ですから、クライエントさんに大事にしてもらいたいこと、そして私にとっても大事なのは、カウンセリングをしている中で感じた「違和感」や「引っ掛かり」です。どんなに小さなものでも。 これはクライエントさんが自分のために歩む道なのですから。 カウンセリングが上手く進んでいくときは、社交ダンスやチームダンス、合奏・合唱、フィギュアスケートのペアなどのように、二人の呼吸やリズムが合っています。 私は、クライエントさんが意識・無意識に感じ

セラピューティック・プレゼンス

先日、私がカウンセリングで主に用いているAEDP™セラピーのトレーニングに参加しました。テーマは「セラピューティック・プレゼンス」。 カウンセリング(心理療法)において、効果をもたらすいくつかの要素の中で、クライエントさんの前でセラピストがどのようであるか、クライエントさんとセラピストとの関係がどのようであるか、ということが重要であるという研究結果が出ています。 セラピューティック・プレゼンスは、セラピストの「ありよう(プレゼンス)」という意味です。 セラピューティック・プレゼンスは、 今ここにオープンであること、 今ここで起きていることをそのままに経験していくこと、 共にいて、感じ、関わっていくこと というようなことを指しています。 これが、カウンセリングに重要なのです。 プレゼンス。 これまでどんな人の、どんなときにプレゼンスを感じたかを思い出してみたのですが、3つぐらいのカテゴリがあるかなと思いました。 1つは、静謐な存在感が伝わってくる人。 私やほかのことに気づいていても気を取られず、ただただ「あるがまま」のような状態にいます。座禅中や瞑想中のような感じです。 その静かな存在感に、だんだん私も、その人のことも他のことも気にならなくなっていって、自分の内側の世界に入っていくような、そういうプレゼンスを示す人です。 2つ目は、一緒にいてくれている、と強く感じられる人。 “本当に”私の話に、私の言葉に、耳を傾け、心を傾けていて、寄り添っている、一緒にいるということをしっかりと感じさせてくれます。 その深い関りに、緊張感が解け、自分自身が現れてくるような、そういうプレゼンスを示す人。 3つ目は、後からじんわりと響き、ずっと心に残る人。 一緒にいたその時は、当たり前のような、何でもないような時間だったけれど、いつの間にか心の大切な場所に残っています。 出会えてよかったなあ、有難いことだなあと、思い出すたび感じる、心の中に存在(プレゼンス)する人。 セラピストとしての私は、正直、十分な「セラピューティック・プレゼンス」があるかどうか自信がありません。 (それでトレーニングを受けているわけですが。) 今も、これからも、大事な課題だと思っています。

話したくないことは話さなくていい

カウンセリングでは、話したくないことは話さなくて構いません、もちろん。 こんな書き出しを読んで、ホッとするでしょうか。それとも、不安になるでしょうか。 その両方を感じるかもしれません。 話したくない話。 話したいけれど、言葉にならない、言葉にするのが難しい話。 秘密、というわけではないけれど、心の中から外には出て行かない、出て行けないようなこと。 話したくない、話せない、と私に言ってくれるならば、 それがあるのだ、ということを伝えてくれています。 それを伝えてくれていることを、大切にしたいと思っています。 また、それを伝えてくれることに深い感謝の気持ちがわきます。 クライエントさんの心の中に、重要な「何か」があるのだということを共有してくれたことに。 話をする、というのは、なかなか力がいることだと思います。 それが重要な出来事や記憶であるほど、そこには、たくさんの思いや反応が埋め込まれています。 相手に「正しく」理解してもらうためには、何度も何度も推敲するような労力が必要でしょうし、もしかしたら、もうこれまで散々その努力をしすぎてきて、ヘトヘトかもしれません。 話さなくていい、というのは、こういう労力を一人で負わないでほしいな、という思いがあります。 前回 で触れましたが、「物語」をつくっていく過程をサポートしたいと思います。 話したいけれど、しんどくなってしまうということもあります。 その時の出来事が甦ってきて、その時に感じたことや感覚が強まっていくと、自分の手に負えない不安や恐怖感が大きくなります。 その時にそんなにも辛い経験をされたのですから、カウンセリングでまたそれを感じてほしくありません。 クライエントさんが、自分の心の中にあるそれと、距離を取りすぎるのでもなく、近づきすぎるのでもないぐらいを感じながら、その話のある一片に注目してみるということもできます。 ”その話”を語らなくても、カウンセリング中の今、ここでは、たくさんのことが起こっています。 話さないでいいって言われてどんな気持ちになったか。 話したくないと思ったときに、どんなことが起きているか。 話さないでいると、身体や心では何が起きているか。 できれば伝えてもらいたいと思うのは、このような、「今、どんなことが起こっているのか」。 そこには、たくさんのものがあります。 カウンセリングはこんなふうにし

回復のための物語を織る

たくさんの禁止のメッセージによって、自分がどうしたいかわからなくなるだけでなく、嫌悪感が自分自身に向かい、自分を恥ずべき存在で無価値だと感じるようになるということについて、 前々回 、 前回 書いてきました。 前回 の最後、コメディアンのハンナ・ギャズビーが、こんなふうな深い傷つきからの回復に必要なのは笑いや怒りではなく、物語だと言っています。 物語には笑いや怒りもあるはず。 でも回復に必要なのは、その笑いや怒りの感情や体験自体ではなく、それを通して物語っていくことです。 自分自身の物語。 それは、世界との関りの中で紡がれていきます。 語る人がいて、聞く人がいる。 聞いていた人が語り、語っていた人がそれを聞く。 物語はこうやって、一人ひとりの中に織られていきます。 「ムーミン谷の夏まつり」では、ムーミンパパが作った脚本での演劇が始まりましたが、当初予定していなかった人たちや観客がどんどん舞台にあがっていき、劇が「劇」じゃない方向へ展開していきます。 これは即興「劇」になってしまったようでいて、生活や人生は「舞台」そのものであり、そこで繰り広げられることは「劇」そのものだということを表しているようです。 こんなふうにもともとの脚本がどんどん変化していったのは、突然加わった人たちとの展開。 人々とのやりとり、反応、そういったものが、「劇」をより面白く展開させていっています。 回復のために必要な物語は、どんな場や、どんな方法でもできます。 家族や友だちの間で。仲間との中で。たまたま集った人との間で。 当事者グループは、物語を比較的安全な方法でつくっていく場です。 私も以前にこういう場・時間を持ったことがあり、物語が、ゆっくりじんわりと紡がれていくことの大きさを知っています。 カウンセリングは、自分の周りの人との間で行うのには不安だったり、難しいときに利用すると良いのだと思います。 自分とカウンセラーという、とても小さな枠の中で、カウンセラーは、織機の縦糸のような存在としてイメージするのはどうでしょうか。 ピンと張られた縦糸。それはいつも同じ状態でそこにあります。だからそれを気にすることなく、自分のペースで、自分の入れたいように横糸を織り込んでいく。 こうして自分のリズムやペースがつかめていくなかで、きっと自分だけのすばらしい織物が出来上がっていきます。 

「自己嫌悪の種は外からしか植え付けられない」

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たくさんの禁止のメッセージによって、自分がしたいことがわからなくなってしまうという、 前回 からの続きです。 禁止が機能するのはは、恐怖、罪悪感、恥の感情が引き起こされるとき。 『ムーミン谷の夏まつり』で、24人の森の子どもたちが公園に行くようになった過程は描かれていませんが、公園番の夫婦が子どもたちに起こしたのは恐怖感だと思われます。 禁止されていたことをやってしまったために受ける罰には、暴力(折檻)のような身体に受けるもの、批判や罵りのように言葉で受けるもの、立場を失ったり仲間外れのような、社会性や関係性に及ぼすものなどがあります。 このような「罰」は、次のようなときにより効力が大きくなります。 ①罰を与える人が自分にとって重要な人物や関係であるとき ②助けがないとき ➂罰によって受ける痛みや失うものが、自分にとって重要であるとき これは、とても辛く、怖いことです。 禁止によって受ける罰の恐怖感が大きいほど、小さかったとしても積み重なるほど、恐怖は次第に罪悪感や恥の感情も引き起こしていきます。 こんな辛くて苦しい感情を避けようとするならば、禁止されていることを守る必要があります。 これが、心も身体もコントロールされていく禁止のパワー。 スナフキンはついてくる子どもたちを連れて、ムーミントロールのところへ向かいます。その途中、スナフキンは、泣いてぐずる子どもをあやし、食事を与え、雨風をよけ、あたたかく過ごさせます。 そうして、子どもたちが笑顔を見せたり、主張するようになっていく様子が描かれています。 禁止がどのように人を傷つけ、蝕むかということについて、オーストラリア人コメディアンのハンナ・ギャズビーの「ナネット」をお勧めしたいと思います。 Youtubeのトレイラーには日本語字幕がありませんが、Netflixは日本語字幕付きです。 とても素晴らしい内容なのでぜひご自身で見ていただけたらと思うのですが、今回のテーマに関連する印象深い言葉を書きます(※文章として読みやすいよう、省略や追記、接続をやや変えているところがあります。ご了承ください)。 (世間にある)嫌悪感が自分自身に向かっていき、心から自分を憎むようになりました。そして私は自分を恥じる気持ちに浸っていました。 自己嫌悪の種は外からしか植え付けられないのです。 (暴力を振るわれたのに警察や病院へ行かなかった

「たいせつなのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ。」

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ムーミン好きな方ならきっとご存知の、スナフキンの名言。 『ムーミン谷の夏まつり』です。 洪水で流されたちびのミイが裁縫かごの中で眠っていると、偶然、スナフキンに出会い、食べ物をもらいました。 十分食べたかどうか、スナフキンはミイに聞きます。ミイは、「また眠くなっちゃった。いつもポケットの中が、いちばんよく眠れるの」と言いました。 それに対してスナフキンが言ったのがタイトルの一文です。 そしてスナフキンとミイが歩いていくと、公園がありました。 ですが、「公園への立ち入り禁止」と書かれた看板が立っています。 公園なのに! クライエントさんがこの場面について話してくれまして、私ももう一度この本を手に取りました。 公園には公園番の夫婦が住んでいて、そこに親がいない24人の子どもたちが毎日森からやって来ます。 公園の木々はきっちりと刈り込まれ、道はパキッとまっすぐ。 そして禁止の立て看板がたくさん立っています。「わらったり、口ぶえをふいてはいけない」「飛びはねるべからず」。 公園番の夫婦が公園を(子どもたちを)管理・監視しています。 こういうことが大っ嫌いなスナフキンは、片っ端から看板を抜き、子どもたちに「好きな場所へ行っていいんだよ!」と言いました。 でも子どもたちは誰も行こうとしません。 スナフキンについて行こうとするので、悩みつつスナフキンは子どもたちを連れて先へ進んで…。 子どもたちの様子は、とても示唆的だと思いました。 たくさんの禁止のメッセージと、それを見張る強い他者。その中にずっといると、「自分」がしたいことがわからなくなってしまう様子が現れています。 自分は何を求めているか。自分がしたいことは何か。 看板からも公園番からも解放されたのに、24人の子どもたちは自分のしたいようにすることができません。 代わりに今度はスナフキンにまとわりついています。 日本の子どもたちは、あふれる「禁止」のメッセージのなかで育っていると思います。 ブラック校則はその象徴。 明示されたルールだけでなく、暗示的なルールは「空気」として漂っています。 禁止のメッセージはこんなふうに、全て周りからきています。 そのメッセージは、大きいこともあれば小さいものもあり、大切なこともあれば、取るに足らないようなこともあります。 周りからきた禁止のメッセージはいつのまにか自分の中に入り込み、自分で自