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叶わない思いと一緒にいること

先日、スーパーに入ったとき、ちょうど同じタイミングで入ってきた親子がいました。ベビーカーに乗っていた小さな男の子が、グズグズと泣いている声が聞こえました。 男の子はどうもお店に入るのを嫌がっていた様子です。たぶん、何か他のことを求めていたのに、思うようにならなくてグズグズしていたようです。 お母さんは優しく声をかけていましたが、急いで買い物をすませたい様子でした。 すると男の子はお店中に響くような金切声を上げて、盛大に泣き始めました。 これって、子育てアルアルですよね…。 お母さんはやること山盛りですから、いつも子どもに合わせて行動するのは無理ですし、 子どものほうも、自分の思いを主張するのはごく自然なことです。 この場面にであい、心に浮かんだことがありました。 それは、子どもだけじゃなく、大人も、自分の思いを受け止めてもらいたいものだよなぁ、ということ。 「受け止めてもらう」ではなく、「一緒にいてもらう」という言い方でもいいかもしれません。 「わたしはこれをしたい!」とか「これは嫌だ!」という思いが、そのままかなわないことは、子どもであっても大人であっても、たくさんあります。 最初は、思いを通すことが重要でした。小さいことでも大きいことでも。「私が」望むことなのですから。 でもそのとおりにならないと、怒りや悲しみのような気持ちがあふれてきます。 子どもはそれをそのまま周囲へぶつけてきますし、大人も、大人なりの表現で、あるいはその人なりの表現で、周りへ伝えたりぶつけたりします。 思うようにならないとき、その思いをただただ聞いてもらうとか、 「そうだよねぇ」と共感してもらったり、 「〇〇がよかったんだよね」と思いを知っててもらったり。 そういうことで、気持ちは落ち着いていきます。 冒頭の男の子も、金切声を上げた時にはもう、思いが通らなかったこと自体よりも、それを放置されたと感じた気持ちのほうに苦しくなっていたのだろうと思います。 たぶん、少し止まって、自分の方を向いてくれて、「〇〇したかったんだよね」と言ってもらえたら、金切声にまではならなかったのだろうと思います。 (これが子育て真っ最中はとっても難しくて大変なんですけどね💦) クライエントさんのお話を聞いていると、クライエントさんにとって大事なときに、「聞いてもらう」「見ててもらう」「そばにいてもらう」「声をかけ

「老後とピアノ」と私、そしてカウンセリング

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数年前にピアノを始めた私は、「老後とピアノ」のタイトルを見て、「これは読まなければ!」と思っていました。まさに私のために書かれた本ではないですか! そして読みました。とっても楽しく! 53歳のとき、執筆依頼をきっかけに、40数年ぶりにピアノを始めた著者の、ピアノへの熱中と悪戦苦闘ぶりに、クスリと笑ったり、共感しまくり。 そして、深く深く心に響いてきました。 この本のタイトル、「老後 の ピアノ」でも、「老後 に ピアノ」でもない。「老後 と ピアノ」。 そう、この本は、ピアノを通して、どう生きるかということが書かれてあったのです。 この本に書かれている、私が心を動かされた文章をご紹介したいと思います。 著者は、間違えないように緊張感を保って練習しまくり、それでも上達しないのでさらに練習しまくっていました(ホントにすごい練習量です!)。 でも手に痛みが出て練習ができなくなってしまったときに、ある本に出会いました。その本には、筋肉の緊張が痛みや故障へと発展すると書いていました。そして気づいたのです。 私が私の体をきちんと使うことができたなら、そう自分の体を否定せず、ちゃんと見つめて、認めて、いたわり、きちんと解放してやれば、そこにこそ私の演奏のゴールがあるってこと?誰かの真似をしたり、目指したりする必要なんてないってこと…? 私たちは誰でも、「こうありたい」と思う自分があります。希望や願望、理想、夢、あるいは、「こうあるべし」というような規範も。 こうだったらよかったのに。 でも違う自分。 私もあります。こうだったらよかったなぁ…と思わずにはいられない、性格や状況など…。 ピアノはまさにその一つ。 小さいころに習える状況になかった。それはしょうがない。 でも小さいころから音楽が身近な中でいられてたら、こんなふうに思うように動かない手を前に、自分にがっかりすることもなかったのにーー-!と思いますよ、自分のヘタクソなピアノの音を聴いて。哀しい限りです。 でもそうじゃなくて、自分(の体)をちゃんと見てあげて、ちゃんと使うことができたら。 そうしたら、それは「自分の」ゴールに向かうことになるのではないか… そうしてピアノの発表会に臨んだ著者は、同じように悪戦苦闘する他の人の演奏を聴きながら深く心を動かされました。 全力で、心を込めて、勇気を出して、どんなひどい失敗をしてもどうに

「癒し志向」のカウンセリングとは?

私がカウンセリングで取り入れているAEDP™心理療法は、「癒し志向」のアプローチです。 「癒し志向」というのは、問題の原因を見つけて、それを解決したり改善するというような考え方とは違うもの、という意味です。 今の問題や苦しみの原因は何か?とか、なぜこんなことになったのか?とか、何が悪かったり問題だったのだろうか、 というようなことは、あまり重視していません。 問題や原因を見つけて、それを取り除いたり、改善することができれば、「よくなる」というのは、一つの考え方です。 身体の病気は、そういう考えに基づいて治療しています。 問題や原因を見つけることができれば、納得感が生まれるでしょう。 その納得感は、安心感へとつながるかもしれません。 問題や原因がわかれば対処のしようがあると、期待が持てるように思うでしょう。 問題解決タイプの心理療法が役に立つことはもちろんあります。 でもそれが、根源的な苦しみの癒しにはつながらないことも、やはり多くあります。 そもそものテーマが、深く残る傷つきであればなおさらです。 心は、身体へのアプローチのようにいかないことも多いのです。 それは私自身、実感します。 自分の中にあるいろいろな痛み、悲しみ。 若い時にいろいろとやらかしてきましたし(汗)、何が問題なのか、わかってはいました。 知っていたし、理解もしていて、納得感はありましたが、 でもその納得感は、決して「癒し」ではありませんでした。 何というか、単に「知っている」というだけの感じです。 「癒し志向」というのは、苦しかったり悲しかったりしたことを、ちゃんと悼む作業であり、 その中で生きてきた力を称賛する作業であり、 そして何より、それを一人じゃなくて、誰かと一緒に行う作業です。 変えられない過去なのに、わざわざ悼む作業をしたりとか、 ダメダメだと感じる自分を変える練習をするわけでもないのに、 なぜ「癒し志向」に効果があるのでしょうか? それは、キーワードが二つあります。 一つは「ちゃんと」。 「ちゃんと」とか「しっかりと」、あるいは「適切に」、「十分に」悼む。 これが、今まで抱えていた過去についての感じや、自分自身についての感じを、大きく変えていくのです。 もう一つは「一人じゃなくて誰か(カウンセラー)と」。 これが苦手だったり、拒否感を示す方もいます。 でもその苦手さや拒否感に、クライ

自分を主人公にする時間

自らカウンセリングの門をたたかれる方は、もしかしたら、自分のことよりも、自分以外の誰かのことを優先させてきた方が多いのかもしれません。 いえ、優先させてきたというのではなく、いつのまにか優先するようになっていた、という言い方の方が合っているように思います。 カウンセリングでは、クライエントさんが主人公です。もちろん。 ですから私は、クライエントさんに「それはどんな気持ちがしますか?」と聞いたりしますが、「えっ?」と一瞬戸惑われたり、自分じゃない他の誰かのことを話し出したりします。 私に一生懸命、出来事や状態についてお話してくださるかたも多くいらっしゃいます。 クライエントさんにとっては「一生懸命」ではないのかもしれません。 それが普通で、いつもの自分なのかもしれません。 状況や背景を理解するために、クライエントさんがお話してくださる内容は、もちろん大切です。 でも“私のために”話してくださる必要はないのです。 「今はあなたのための時間なので、自分のためにたくさん時間と空間をとって、自分のペースを大切にしていいんですよ」 と言うと、どうしたらいいか戸惑われて、緊張する方もいらっしゃいます。 (これらのどれが起きても、私はもちろんサポートします~) 自分の中で起こっていることに注意を向け、自分の気持ちや感覚を感じ、そうして自分自身を理解するようになってくると、クライエントさんは、過去の自分が、どれほど他の人のことばかり優先していたのか気づきます。 どれほど、自分自身を犠牲にしたり、後回しにしたり、抑圧していたか、 そして、自分で自分のことが、こんなにもわからなくなってしまっていたということに気づかれます。 クライエントさんが、自分自身に目を向け、自分の気持ちや感覚を感じ取り、ただそのままでいられるようになったり、 自分の気持ちや考えを言葉にするようになったり、 もっと言えば、自分はこうしたい!といった欲求や要望をはっきりと言えるようになるまで、 カウンセリングでは、ある程度の時間をかけて行っていきます。 これは、初めの頃は、とても居心地が悪くて、不安な気持ちになったりするのです。 言葉も知らない、初めての国に降り立ったような感じでしょうか。 あんまりにも慣れていなくて、あんまりにも初めてで。 でもカウンセリングでは一人じゃありません。 カウンセラーというガイドが一緒にい

罪悪感の中にある共感の気持ちをひらく

罪悪感は、自分に向けられる苦しい感情です。 以前のブログで、「前提としての『罪』があるのかどうか」、ということを書きました。 今回は、少し違った視点から、この苦しい感情について書いてみます。 カウンセリングでテーマとなる罪悪感は、自分は悪いことをしてしまったとか、悪いことをしようとしている、ということが頭の中に渦巻いている状態です。 その行為や考えは受け入れがたいものであるために、この苦しい気持ちが自分に押し寄せ、打ちひしがれます。 その行為や考えは、自分だって喜んでやったとか、望んでいたというものでもないので、自分が求めてもいない結果に苦しみます。 以前のことであれば、その当時にはどういうことかわからなかった、あるいは、考えることができなかった、ということもあるでしょう。でもその意味を知る今は、過去を悔いる思いにさいなまれてしまいます。 これが重なっていったり、ずっと大きく残ったままでいると、自分自身の存在までも否定し、非難する気持ちになっていきます。 カウンセリングでは、この気持ちを、ゆっくりと、ゆっくりと、ひも解いていきたいと思っています。 そうしてひも解いたその「気持ちの箱」の中をのぞくと、いろいろなものがあることが見えてきます。 その一つが、クライエントさんの、他者を思う大きな気持ち。 罪悪感は、たいていは、誰かとのなかで起きた出来事から生まれます。 一つの大きな出来事かもしれないし、小さな日常が積み重なっていったかもしれません。 そこにいたその相手との関係の中で、罪悪感は生まれ、育っていきます。 そしてクライエントさんは、その相手のことを、重要な存在として思う気持ちが、しっかりとあることが見えてきます。 クライエントさんが他者に向けるその思い。 クライエントさんにとっての、その人。 それもまた、とても大切な感情だと思うのです。 罪悪感の背後にあったその思いを、箱の中から取り出して、ちゃんと光を当ててあげたいと思います。 その人は、どんなふうに重要なのか。クライエントさんの人生において、どんな存在の人なのか。 カウンセリングでは、たくさん聞かせてもらいたい。 「その罪悪感について、もっと話してもらえませんか?」

難しいテーマは、一旦仮置きする

カウンセリングの中では、いろいろな出来事、記憶、人との関係、自分自身などについて語っていくことがあります。 そうやって話しながら、そこに心の中の深いテーマが浮かび上がってきたり、あるいは、そのテーマに近づいていったりするような感じが出てきます。 そのテーマは、話題の「入口」となっていた現在の問題や苦しみの根底にあるような、あるいは、中心にあるようなもので、それを掘り下げていくことは、改善、解決、解放などにつながりそうです。 ですがそれに向き合うのは、かなり負担感があるものです。 なぜなら、そのテーマが生まれて、そのまま今まで存在してきたのは、改善や解決などがそもそも難しすぎたり、大きすぎたりしたから。 改善や解決は難しすぎたから、避けたり蓋したりしてきたわけですから、今さら向き合うのかと思うと、負担感や拒否感が出るのは自然なことでしょう。 きっと向き合ったり、深めたりしたほうがいいのはわかっている。 それがテーマだし、問題なのだともわかっている。 でも今それはやりたくない。 今なんとか均衡を保っているのだから、そのまま置いておきたい…。 もう見えてしまっている、自分でもわかっている、あの「テーマ/問題」は、一旦どこかへ置いておくんだ… 今じゃない… そう思うならば、その「テーマ」を箱に詰めて蓋をして、一旦置いておきましょう。 カウンセリングでは、私もそのイメージ作業を一緒にします。 あそこに置いてある、 誰も知らない、大きい、重い、でも大事な「テーマ」。 セラピストは、クライエントさんがそうやって仮置きした、その作業の立会人です。 一緒に作業すれば、もう一人ではないのです。

私のなかの『わたし』と出会う

カウンセリングは、クライエントさんと私(セラピスト)の二人で行うものです。 でもそこに、私は、もう一人連れて来たい「人」がいます。 それは、クライエントさんの中のクライエントさん。クライエントさんの「わたし」とか「自分」という感じを感じる部分です。(記述すると長いのでここでは短く『わたし』と書きますね)。 その『わたし』は、クライエントさんの心のうちにあります。 クライエントさんがカウンセリングに来るとき、クライエントさんは、自分の心の中にあるその『わたし』の存在を知っている場合も、知らない場合もあります。 『わたし』はいるって感じている場合でも、その『わたし』のことをよくよく知らないことは多いかもしれません。 『わたし』はどの人の心の内側にもいるイメージが私にはあります。 そして私がカウンセリングで行いたいこと、とても大切にしたいこと、カウンセリングで目指していることは、クライエントさんが『わたし』と仲良くなることなのです。 『わたし』にとっての一番の親友がクライエントさんになったらいいな~という思いがあります。 でもそれはなんだかよくわかりにくいことかもしれません。 「私は私で、私の中の『わたし』も私です」 こんなふうな言い方をされる人はいませんが、 自分の内側に目を向けていくということがよくわからない、イメージできないし、ピンとこないというのは、ある意味とっても普通でよくあることです。 なぜなら、『わたし』はたいてい、心の奥深くに、ひっそりと隠れていて、クライエントさんにさえその存在を感じさせないようにしていることもあります。 『わたし』は危機探知がバツグンに良くて、ぜったい大丈夫!と感じられない限りは、その存在を見せてくれることはありません。 だけど『わたし』は、ずっと待っているのです。 誰かに気づいてもらうこと。 一緒にいてもらうこと。 思いを知ってもらうこと、聞いてもらうこと。 だから私(セラピスト)は、クライエントさんが私にいろいろとお話してくれることを大切にしたいと思いつつも、そこにクライエントさんの『わたし』がいるのかをとても気にしています。 『わたし』が一緒に会話に参加していないように感じるときは、クライエントさんにちょっとだけ待ってもらいたい…。 そして『わたし』を二人で一緒に迎えたいのです。 「どうぞいらっしゃい」 「ずっと待ってたよ」って。

「恥」を誇り(プライド)に変える

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今年はコロナ禍を経て久しぶりにプライド・パレードが世界の各地で開催されましたね。 私は 20 年ほど前にカナダのトロントでこのパレードを見ました。カナダは移民国家ですが、私が滞在していた時に、トロント市の移民一世の人口が初めて半数を超えたというニュースに、町の人たちが歓喜したなど、多様性にオープンな都市です。ダウンタウンには通称「ゲイ・ストリート」(当時の呼称。今はどうなんでしょう?)があって、 LGBTQs の人々が集っていました。 そのトロントでのプライド・パレード。すごいです。今年の映像はこちら。「お祭り騒ぎ」という言葉がぴったり、活気にあふれ、参加する人も見る人もめちゃくちゃ盛り上がる楽しいパレードです。   私はプライド・パレードの「 pride 」という言葉が好きです。 胸が熱くなる感じがします。 日本語の否定的なニュアンスは全くなく、「誇り」という言葉そのものです。 性的少数者が生きづらく感じる理由の一つは、周りの人々や社会が持つ「恥」が、自分の中にも取り込まれていることです。 というよりも、「恥」は、周囲の人や社会が考える受け入れがたいこと、よくないこと、「普通」じゃないこと、という価値観を心の中に浸み込ませ、こびりつかせてしまう猛烈なパワーを持っています。 多数者や力をもつ人がこのパワーを使うのはこのためです。無意識にも意識的にも使って、自分の価値観を維持する環境をつくっています。そうすると、自分は変わらなくていいし、自分にとって居心地がよい環境を維持できますから。 だから少数者のほうが取り込んだんじゃなくて、取り込まされた、浸み込まされた、という言い方の方が正しいと思います。   この恥のパワーのやっかいなところは、恥が内面化されてしまうと、自分自身が恥ずべき存在なんだという価値観を信じこんでしまったり、違和感や居心地の悪さを感じていても、自分の中にある「恥」を、外に追い出すのがとても難しいことです。 これが、深刻な精神疾患(抑うつや不安など)の原因であったり、人間関係の困難を引き起こすだけでなく、自殺の要因ともなることが研究でも示されています。   前回の記事で、恥と孤独の関係について書きました。 自分の周りが、自分自身を否定するような言葉と視線に満ちあふれいているとしたら、自分を、自分の「恥」をさらけ出すことができるでしょうか? 想像するだけ

恥の感情に必要なのは「誰か」の存在

恥を感じたとき、 自分を恥ずかしい存在だと感じているとき、 その恥の感情に必要なのは、そばにいてくれる「誰か」。 〈はじらい〉は、 自分をうめる穴をほり、 その中にうずくまる。 モグラみたいに。 『〈きもち〉はなにをしているの?』 ティナ・オジェヴィッツ文、アレクサンドラ・ザヨンツ絵、森絵都訳、河出書房新社 この文章は、恥についてぴったりな表現だなと思います。 土の中が生活の場であるモグラのように、 恥は誰にも見られない地中で力をもっています。 恥が生まれ出たのは、その言動が「よくないもの」なのではなく、その言動をする「自分がよくないもの」だというメッセージを与えられたから。 否定されるような「わたし」は、人目につかないようにしなければならない。 そうやって「恥ずかしい自分」は、土に穴をほってうずまっててもらい、決して地上には現れないようにする必要があります。 そうやって人には見えないようにうずめている恥は、 モグラのように、地中で最も力を発揮していきます。 人には見えないけれど、自分という土の中では、いつまでも元気で居座りつづけるのです。 モグラは地上に出ると、太陽の光で上手く動けなくなるように、 恥も、明るいところに出してはっきりと見えるようにすることで、身動きがとれなくなります。 そこで必要なのが、仲間や、安全で安心できる誰か。 恥が最も必要とするのが、その恥からくる痛みと孤独を知っている、わかってくれる誰か。 恥を感じたときは、「誰か」が必要なのです。 安心できる「誰か」と一緒に、 土の中で元気にしている恥を太陽の元にさらし、 しっかり見てみてほしい。 それは本当に恥ずべきこと? もしそれが恥ずべきことであるなら、それはその言動であって、自分という存在ではない! そういうことを、その「誰か」と一緒に知ってほしいなと思います。 恥ずべき存在の人など、一人もいませんから。

秘密と孤独

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秘密を持たない人はいないと思います。 秘密にしていることを自分でも自覚していないような秘密もあるかもしれません。 Michael Slepian博士によると、人は一度に平均13個の秘密を持っているそうです。そしてそのうち5個は誰にも話したことがない。 最もよく見られた秘密は嘘をついたことでした。 嘘は秘密を守る方法の一つなのですが、嘘をついたこと自体が秘密になる、という構造があります。 「秘密を持つことの本当の問題は、秘密を隠すことではなく、秘密と共に生きていかなければならないこと」だと博士は言っています。 秘密は孤独と背中合わせです。 秘密の内容が、恥の感情と関係することも指摘されています。 その秘密が、「私は悪い人間だ」「価値のない人間だ」という評価に結び付いているとき、秘密はさらに心の奥底へとしまわれ、誰にも見せないよう孤立していきます。 そんな奥へとしまわれながら、でも常にその秘密は自分につきまとい、秘密によってもたらされた恥の感情に傷つけられてしまいます。 「秘密」の難しさは、秘密を隠すことではなく、秘密について一人で考え、一人で抱えていくこと。 秘密は、それが個人にとってとても重要なものだからこそ、誰かに打ちあけ、誰かと共有することで、孤独感や辛さを和らげてくれます。 カウンセリングは、クライエントさんが持っている「秘密」を他者(カウンセラー)と共有する場所だと言えるでしょう。 カウンセリングは、心のなかを探究していくプロセス。 自覚している「秘密」だけでなく、心の中で陰に隠れていたような気持ちや自分に出会う作業だからです。 秘密に関してカウンセリングでしばしば出される別のテーマについては、また別のブログで書きたいと思います。 Slepian博士のお話はこちらから聞くことができます。 秘密にまつわる様々なお話だけでなく、博士の個人的な経験も語っておられ、とても興味深いお話です。(英語)