投稿

オンラインでのカウンセリングってどうでしょう?①

オンラインでのカウンセリングは比較的新しいことですので、不安を感じる方もいらっしゃると思います。それで今回のテーマは「オンライン」という方法について書いていきます。 VIEWは現在のところ、カウンセリングをオンラインでのみご提供しております。 オンラインでだけで開業をスタートしたきっかけは、やはりコロナ禍でした。 北米では、コロナ禍でロックダウンしたと同時に、カウンセリングサービスは一斉にオンラインに切り替えられました。それでもカウンセリングを希望する人はそれまでよりも増えたそうです。 オンラインと対面を比較する研究はそれまでも行われていましたが、コロナ禍以降にはさらに広範な研究が行われています。研究はまだ途上のようですが、オンラインは対面と比べても効果に違いはないという結果が出ています。 私が行っているアメリカの心理療法のカウンセラーの方たちも、コロナ禍でオンライン対応に切り替えていました。そして、「心配していたほど問題はなく、思ったより上手くいく」というコメントでした。 こういう背景があり、私もオンラインでの実施をスタートした次第です。 オンラインで行っていて、細かいところでの違いはありますが、私もやはり、対面よりも「劣る」とか「難しい」などを感じたことはありません。 問題があるとすれば、通信や機器の状態に影響を受けることがある、ということですが、これはある程度起こり得ることを想定して、対応できるようにしています。 クライエントさんは、ご自宅からアクセスされている方が多いのですが、別の場所を用意してアクセスされている方もいらっしゃいます。 その場所がクライエントさんにとってどういう場所かによって、セッションに影響が出ることがありますが、それも含めて進めていっています。 クライエントさんにお願いしているのは、ある程度の大きさの画面のご使用です。ある程度の大きさがあると、カウンセラー(私)の存在をよりしっかりと感じてもらいやすくなるからです。 でもわざわざご用意していただく必要はありません。スマホからでもOKです。 オンラインのよさは、やはり、距離を超えること、でしょう。 私のクライエントさんも、日本各地だけでなく、海外にもいらっしゃいます。こんなふうに、簡単には会えなかったであろうクライエントさんとお会いできるのは、オンラインならではです。 でもやはり、人と会う、

カウンセリングの期間について

カウンセリングはどのくらいの期間が必要ですか?というのも、よく寄せられる質問です。 お答えとしては、「クライエントさんによって異なります」になります。 ご希望でしたら、1回のみ、ということも可能です。 1回のみというのは、次のように展開することがあります。 心理療法(心理セラピー)として1回で終了できるような展開 「お試し」のような感じで体験していただくような展開 問題や状況などを整理して、どんなふうにご自身のテーマを扱っていくかということを理解するような時間となる展開 どんなふうに展開するかはクライエントさんのご希望や状態によりますが、ひとまず1回で終了できるように対応いたします。 数回程度で、クライエントさんが抱えていた問題や、扱いたいテーマが完結することもあります。 これまでの経験でも、ごく少ない回数で問題(症状など)が解決したり、希望を感じることができるようになって終了となったことがあります。 期間や回数を事前にお申し出いただいた場合は、その中で対応いたします。 例えば、3か月間とか、10回、などと具体的にご提示いただいた場合は、どういうことをテーマにしたり、どんなゴールをイメージされているかなどをうかがって、そこを目指して進めていくようにしています。 この場合は、テーマをより絞って集中して進めていくことになりますが、終了の時期がはっきりしているので、クライエントさんのほうも、モチベーションを明確にもちやすいようです。 比較的長い場合は、1年~3年ぐらいでしょうか。カウンセリングの実施頻度にもよりますが。 長くなるのは、いろいろな背景や理由があります。 でも長くなってきた場合は、どちらかというと、さらに長く続ける方が多いように思います。 それはおそらく、自分の「こころ」の深淵に触れていくと、ある程度継続的に、自分のこころを感じる時間の、生活での位置づけが大きくなるからだと思います。 私もカウンセリングを受けているのですが、それは自分自身を深く知っていくというための時間なので、「終わり」はないな~と感じています。カウンセラーと過ごす時間自体が、生活や人生の中で重要な位置づけとなっているという感じです。 こういう目的だと、頻回にカウンセリングをする必要はなくて、ある程度の間隔をおいて定期的に行ったり、時々気が向いたときに受けたり、ということになっていきます。 こ

カウンセリングの頻度

カウンセリングを受けられるにあたって、よく寄せられるご質問の一つが、どのくらいの頻度で受けるのがよいか?です。 それは、「クライエントさんの希望や状況による」です。 料金負担と、カウンセリング目的の、二つの点からご説明します。 料金については、気軽に受けられるような金額ではないことは承知しておりますので、経済的な状況に応じて選んでいただく、ということになります。お支払いが可能な間隔をとっていただくので構いませんし、このブログの最後に書いていますが、どのような間隔でも、それに応じて対応させていただきます。 なお、経済的にお支払いが困難な方は料金のご相談は可能ですので、お気軽にお申し出ください。(※ご利用可能人数の枠がございますので、事前にお問い合わせください。) 次に、カウンセリング目的について。 カウンセリングは、具体的な、あるいは、心理的な困難があると感じていて、「第三者」に話してみよう、聞いてもらおうと思ったり、カウンセリングという方法で解決してみようと思うことがきっかけとなると思います。 ですので、そのような困難の感じがどのくらい大きいかによって、頻度が違ってきます。 頻回に受けることをお勧めするのは、次のような場合です。頻回というのは、週に1回~2回ぐらいになります。 ・状況的、心理的なしんどさが大きい ・具体的な問題があるなどして、日常生活の維持が大変 次回のセッションまで気持ちがもつかどうか…、をイメージしてもらったらよいかもしれません。 カウンセリングを受けようと思うきっかけとして、長年の自分の「こころ」の課題を感じて、それに向き合ってみよう、ということもあります。 その場合でも、頻回で比較的短期間で集中して行うと、流れがスムーズな傾向があります。 私が行っている心理療法の効果について研究した論文が先日発表されましたが、研究として行ったセッションは16回でした(4か月間)。 期間をあらかじめ設定したり限定したりする場合は、テーマを絞ったり、ゴールを確認しながら進めていくことになるので、クライエントさんにとっても、終着点がわかりやすいのではないかと思います。 頻回に行うメリットは、セッションの流れや一貫性があることです。 月1回のジム通いと週1回のジム通いでは、身体の健康維持の違いが明確だと思いますが、カウンセリングもそんな感じで、前回から継続してテーマ

人生100年時代の「こころ」

前回のブログ で、高齢者の心理療法について書きましたが、5月3日に同じテーマの記事が掲載されていました。 「晩年によみがえる『記憶』」毎日新聞2022年5月3日朝刊 ※有料記事です。 記事は、イスラエルの、高齢となったホロコースト生存者のトラウマについて書いています。 ホロコーストは何十年も前の出来事ですが、人生の晩年になってから症状が出始めています。全体の約半数の人々が、このように、トラウマとなった出来事から20年以上たって発症していました。 晩年になるまでは、同じような経験をした人々の社会の中で生きてきて、若い間は、気力や体力で記憶を押し込めることができていましたが、加齢とともに、その「重し」が失われていくことが背景にあると考えられています。 確かに、「若い間」は、やることが山積みの毎日です。 とにかく仕事。収入を得るなどして、食べていかなければなりません。戦後の混乱の中では、これは何よりも大きな問題だったでしょう。 子どもがいれば、子どもの世話や、日々の雑事で毎日はあっという間に過ぎていきます。 そんなふうに大変な中でも、「若い間」であれば、人と出会い、つながる機会が多くあります。ちょっとした喜びや笑い、大変な中でホッとする瞬間をしみじみと感じることもできるでしょう。 ですが高齢になると、そういうことが、一つひとつ失われていきます。 退職や子どもの独立は、重荷からの解放ですが、これが「重し」を失うことにもなります。 しなければならないこと、できることが少しずつ少なくなっていく。 そういうなかで、心の中にあったものが、以前よりも、より大きなものとして立ち現われて来るのは想像に難くありません。 人生100年時代というのは、「こころ」にとっても、新しいテーマが現れてくる時代なのだと思います。 晩年になってようやく、晩年だからこそ、やっと現われてきたもの。 「こころ」にとって、大切な、大きなテーマ。 第二次世界大戦の加害と被害の両方を経験する日本。 多くの大災害を経験してきた日本。 この「晩年性PTSD」は、社会としても、一心理臨床家としても、重要なテーマだと感じています。

癒すに時あり。癒されるに齢なし。

祖父が亡くなる、その最期のとき、私はそばにいることができました。 祖父は私を大切にしてくれましたが、性格なのか時代背景なのか、ちょっと近寄りがたい感じがある人でした。 数年の闘病を経て、臨終のとき、その祖父が、ものすごく優しい表情をしていました。私が知っている、緊張感を感じるような寡黙な顔ではなく、この上なく柔らかくおだやかで、微笑んでいるようにさえ感じました。 私は、天使がいる、と思いました。 おそらく、痛みや苦しみから解放されていたのだと思います。 そのお顔の周りは明るく光って見えました。 悲しいはずの別れのときに、私は不思議な安心感や満たされた感じがしたのを覚えています。 「おじいちゃん、よかったなぁ…」と。 大正から平成を生きてきた祖父は、個人としても、時代としても、複雑で困難も多かっただろうと想像します。 何があったか、どんな思いで生きてきたか、当時の私にそれを聞く力はありませんでした。例え今も生きていたとしても、聞くことはやはりないのだろうと思います。家族とは、そういう距離感があるのかもしれません。 やさしい表情で逝った祖父の最期は、大きな癒しと解放の時間だっただろうと思います。それが祖父にとってどんなことだったか、聞くことはできませんが、私の中にこうして遺してくれた記憶、それは「癒し」でした。 人は、癒されるべき生を生きていると思います。 そして、癒されるに年齢は関係ないと思います。 むしろ、「高齢者」と呼ばれる年代の方々にこそ、癒されることが、人生の中で重要だと思います。 戦中、戦後の激変の時代を生きてきた方々。 社会的な抑圧や差別、経済的な困難。それらを我慢や努力で耐え忍ぶことを求められてきた時代。 この時代背景は、お一人おひとりの人生にさまざまな影響を及ぼしてきただろうと思います。 「癒し」とは何か。 これは大きなテーマですが、誰もが何となくイメージするものとしては、 深い安堵感、からだも心も解き放たれたような軽さや、鎮まり落ち着いている感じ、あたたかさや満たされたような感じ。 こんな体験をイメージされるのではないでしょうか。 私が行っているAEDP™セラピーは、「癒し志向(healing oriented)」が特徴の一つです。 心の中にあって、まだ十分には体験されていない深い感情を、安全に、しっかりと感じることを通して、癒しや変容、成長を感じて

「感情の経験」もトレーニング

イメージ
プロフィールに書いていますが、私は2年ほど前からピアノを始めました。 目標は漁師ピアニストの徳永さん😄 すごい。52歳から始めて、60歳のときにフジコ・ヘミングさんと共演! こういう方がいると、「こんな歳から始めても…」という恥の感情は消えてくれます。ありがとう~。 私は楽器は未経験で、そして年齢的な壁ももちろんあって、1曲が弾けるようになるまでが大変です。何回もしつこくやってます。 そうすると、あららら!と指が勝手に動く瞬間が訪れてくれるのです。 これが気持ちいい。 指が勝手に動くなんて!!! 楽器をされている方なら「なんだそれ」みたいな話で恐縮ですが、こんなふうに勝手に身体が動くのは驚きです。 今回この話をしているのは、「感情の経験」と重なるところがあるなと思ったからです。 感情は誰もが感じていますし、持っているものですが、二つの側面について、あまり経験されていなかったり、難しかったりすることがあります。 一つは、感じるのが難しい感情を感じること。 考えると大きな痛みを伴う経験や出来事、あるいは自分自身の受け入れがたい側面は、感じるととても苦しく辛いので、あまり深く考えないようにしていることが多くあります。 もう一つは、どのような感情であれ、深く深く感じること。 歓喜に心を震わせる。 心の底から怒りを表現する。 喜怒哀楽に限らず、快適な感情も、きつい感情も、深くしっかりと感じるということは、実は簡単ではありません。 成長するにつれ、社会で生きていくにつれ、感情をしっかりと感じ、表す、という機会はどんどん減っていきます。あるいは、サバイバルの手段として深い感情から距離を取るということもあります。 「成長」や「社会性」の獲得の一方で、深い感情の体験は失われていく傾向にあります。 このように、感情をしっかりと感じるということに慣れていなかったり、不安だったり、難しかったりということは、よくあることです。 私がカウンセリングで行っているのは、「感情の体験に少しずつ慣れていく」、という作業です。 じっくり、そして繰り返しやっていくと、からだとこころがだんだん慣れてきて、ふっと、そしてスルスルと、感情の方が動いてくれる、そういう動きをつくっていくのをサポートしたいと思っています。 私のヨガの先生は、ポーズをとるときに必ず「無理をしない、でも少しだけ挑戦する」ということを言

自分軸について

「自分軸」。 クライエントさんからこの言葉を教えていただきました。 自分の主体性を表す、わかりやすい言葉だなと思いました。 インターネットで検索してみると、いろいろ出てきました。イラストレーターでエッセイストの中山庸子さんは、タイトルずばり「 自分軸のつくりかた 」という本を書かれていたり、自分軸についての動画や、「自分軸手帳」というのもありました。 私はクライエントさんにお会いしていて、自分軸がない人はいないな、と思っています。 でもクライエントさん自身が自分軸を明確に感じられるようになったり、その自分軸からものごとを感じたり、発言したり、行動したりするまでには、いくつかのプロセスを踏んでいく流れがあります。 「自分軸」は、自分が考えること、思うことを決めたり、実行するという意味のようです。 このような決定や実行のベースには、自分自身についての体験があります。 それは身体の感じであったり、気持ちが感じられることであったり、今までとこれからを想ったりすることなどの体験。 感じたり思ったりする自分がいる、という体験です。 ごくシンプルな例はこんなこと。喉が渇いたあなたは、目の前にある水が入ったコップに手を延ばし、コップの水を飲んだとします。 これは、あなたがしたことですね。他の誰かではなく。 そう、「自分」がいます。喉が渇いたと知っている。コップの水を飲む行為をしたのは自分だと、あなたは知っている。 そして水が喉を通って行きました。その感じ。 乾いていた喉が潤って、ちょっとホッとした、その感じ。 それは他の誰でもない、あなたが感じた、あなただけの感覚。誰も邪魔することができない、あなた自身の感覚。 当たり前すぎるような、自然すぎるようなことですが、自分を感じるベースは、こういう感覚への注意からつながっていきます。 あなたがコップの水を飲んでいるのを見ている人がいました。 A「外は暑かったから、お水を飲んでホッとしたでしょう」とやさしく声をかけた人。 B「忙しいんだから水ぐらい自分で用意して飲んで!」とイライラして顔をそむけた人。 C「こんな少しのお水じゃ水分補給にならないよ、もっと飲まないと」と不安げに見つめる人。 潤ったあなたの身体は、こんなふうに言われてどんな感じがするでしょうか。 あなたの意思で手を延ばしてコップを取り飲んだという行為に、意味づけが加わる感じが生

「自己主張」という花を咲かせるには

周囲の人の顔色をうかがって生きている人にとって、自己主張するのはとても難しいことです。 周囲の顔色をうかがうようになったのは、いろいろな背景が考えられます。 幼少期から、大人にわかりやすい態度で喜怒哀楽などを示すタイプではなかった。 周囲の環境が緊張感に満ちていた。 たまに主張してみても、否定的な反応をされ、主張を引っ込めるしかなかった。 自分のペースに合わせてしっかりと応対してくれる経験が少なかった。 などなど…。 それを経験しているのが子どもであっても、大人であっても、その関係は対等ではなく、一方的なものです。 相互の違いを感じながら、でも相互に尊重するという、対等な関係ではありません。 こういう関係の中にいることで、「主張」をこころの奥底に閉じ込め、蓋をして、地中深くに埋めて、長い間放置してきました。 もうそれがあったことさえ忘れてしまうぐらいに。 このようなクライエントさんが、やっとの思いでできる『自己主張』は、欲求を表す言葉ではなく、要望の形をとることが多くあります。 例えば、夫から長い間、バカにされたり、きついことを言われたりしてきた女性は、夫に対して反抗や反論ができないことが多くみられます。 対等な夫婦喧嘩ならば、こんなふうに言い返したりするでしょう。 「そういうあなたは何様!?」 「で?何が言いたいわけ?」 でも言い返したら100倍になって返ってくるという恐怖感とともに、自分に問題があるのかもしれないという不安が襲ってくる。 だから、辛くて苦しいけれど、何もできずに耐える。そんな人がどれほど多いか…。 自分は嫌なんだ、傷ついているんだ、ということを感じられるようになっても、ようやく言える言葉が、「そんなふうに言わないでほしい」という要望が精一杯だったりすることがよくあります。 頑張って、勇気を振り絞って主張した気持ちなのですが、でもこれは明確な自己主張ではありません。 だからやっとの思いで言ったけれどスッキリしないままですし、たいていは相手に受け止められなかったり、逆ギレされたりして、「自己主張すべきではなかった」と、自己嫌悪に陥ってしまいます。 相手へのお願いの形をとるような要望ではなく、ホンモノの自己主張は、「私」という土壌をベースにして咲く花のようなもの。 その土壌は、「感情」という肥料がたっぷり必要です。 「私は」怒っている。 「私は」嫌だ。

萌芽更新~修復と成長

イメージ
春を迎え、初心者ガーデナーである私は、作業がしたくてウズウズする季節です。 仕事や家庭の用事があると、どうしても庭仕事は後回しになってしてしまいますが、先日は思い切って時間を作りました。 作業のときはいつも無心になっていくので、心のモヤモヤしたものや疲れなどが、不思議と軽くなるのを感じます。 初心者なものですので、図書館で、たくさん庭づくりの本を借りました。 その一つにこんなことが書いてありました。木を切断した切り口の観察から生まれたモデル(CODIT)についてです。 「(CODITモデルを簡単に言うと)木は枯れたり腐り始めたところに、強力な壁を作って、健康な部分にまでその影響がおよぶのを防ぐってことなんだよ。木の防御本能ってすごいんだよ。」 『ポール・スミザーの剪定読本』ポール・スミザー著、講談社 人も、誰かや何かに心を傷つけられると、もう二度とこんな辛い思いで苦しまないように、心は警戒し、防御を働かせる機能があります。 はっきりと覚えているような大きな出来事だけでなく、小さな傷つきの積み重ねでも、この強力な防御の働きは生まれます。 傷みはつらく、苦しい。 生きていく最後の力を保っていくためには、その傷みの影響を小さくする必要があるかもしれません。防御は、そこで機能してくれているのです。 自分なりに獲得した防御が上手く機能し、心身の健康がある程度維持できているのであれば、それは「よい防御」であり、「必要な防御」でしょう。 切り取った枝の跡は残っても、木と一体化した特有の美しさがあるように。 枝を適切に切り取ることで、幹の生命力が増すように。 里山の管理に、「萌芽更新」という木々の再生方法があるそうです。 「広葉樹を伐採した翌年には、根株からびっしりと休眠していた芽が萌芽し、生育を始める。これが成長して新たな森林を作るのを期待するのが萌芽更新である。また、伐採されたことにより地表に太陽光が届くようになるため、周囲に落下していた種子からの天然更新も進む。」(wikipediaより引用) 木は自らを防御しながら、いえ、防御することで、生命力を維持している。 こんな木を見ると、木の生命力、たくましさ、空に向かって伸びる若木のみずみずしさに、心が動かされます。 ロンドン南東部のサリー州に、イギリス国防省の医療リハビリテーション・センターがあり、復員兵士がPTSD治療を受けて

誰にも備わる「成長に向かう力」

イメージ
春。 昨冬に植えたプシュキニアの球根が芽を出しています。土から緑の芽がちょこっと顔を出したのを見て、じわーっとうれしい気持ちが広がります。 春は、こんなふうにあちこちで新芽を見る時間がうれしいです。 芽吹きの初めはたいていどれも、ごくわずかなものです。とても小さかったり、色もわかりにくかったり。 それを見つけたときは、「あー!やっぱり出てきた!」「出てきてくれてよかったー!」と思います。 写真の球根も、植えてから長い間ずっと土の中でした。でもやっぱりいました! 写真では大きく見えますが(アップで撮りました!)、小指の先ほどもない小さな芽です。 こんなふうな成長に向かう力、発展の力は、人にもあります。 この力は、子どもから青年期だけに留まるものではありません。誰にも、いつでも備わっているのです。 最近の脳神経科学では、脳は生涯を通じて、機能的、構造的な変化をし続けていることがわかっています。 このことを私はカウンセリングで実感しています。高齢者、後期高齢者の年齢にあたるクライエントさんも、感動的な変容を体験されているからです。 ですが、打ちひしがれていたり、自信がなくなっていたり、自己嫌悪に陥っていたり、不安で苦しんでいるときには、この「力」を自分で感じとることは簡単ではありません。 それは私自身にあてはめても感じることです。 植物は、適切な環境があれば、その植物自身の生命力が発揮されます。 土の中で時期を待っていた球根が、春の光を浴びて芽を出すように、 葉を落として枯れたように立つ木の枝先に、小さな柔らかい芽が突き出すように。 人も同じように、備わっている力が引き出されるには、「適切な環境」が必要です。 カウンセリングで行うのは、この「適切な環境」の中で、その人が持っている「力」を引き出し、感じてもらうことです。 「あきらめよりも成長を選ぶ力であり、停滞よりも変化を求める力であり、自己嫌悪よりも自己に対する肯定であり、孤独よりも人との結びつきを選ぶ力だったり、バイタリティあるエネルギーをもつ力」( 「感情を癒す実践メソッド」 花川ゆう子著、金剛出版) ※この力をAEDP™セラピーではトランスフォーマンスといい、これを見つけ育むことを重視します。 自分をよりよくしたい、よりよい自分でありたいと願う力。 「デカルトの誤り」などたくさんの著書がある、神経学者のアントニオ・