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カウンセラーとの相性って?

心理療法は驚くほど種類があって、私も、名称と概要しか知らない心理療法もあれば、新しいものだと名称も初めて聞くものもあります。 こんなにあふれるほどの数のなかから、自分のテーマ、自分自身に合うものを探すのは本当に難しいことだと思います。 また、カウンセラーとの相性という問題も言われます。 これも、どういうものかわかりにくい、つかみにくいものだろうと思います。 私自身は、約10年ぐらい、とあるセラピーを受けています。 私の場合は、解決すべき悩みや困難が、当時も今もあったわけではなかったので(悩みがない、という意味ではありませんよ~)、どちらかというと興味本位で始めたものです。ですので、週に1回などのような頻回ではなく、とてもゆったりしたペースでした。また新型コロナウィルスの蔓延で、この2年ほどはかなり間が空いていたり、という感じです。 このセラピーを始めたころの感想は、「ふーん…」。 「ふーん…」。 表現が乏しくてすみません…。 悪い感想ではありません!でも、すごく楽になるとか、視界が開かれるとか、そういう劇的な変化を感じていたわけではない、という意味です。 ところが、回を重ねるなかで、私になくてはならないものだと気づくようになりました。知らなかった自分に触れることが、こんなふうに癒されるのだと認識するようになったのです。 カウンセラーの先生との相性を感じ出したのもこのころでした。先生の言葉や存在があって、私が内側の自分に近づいていっていること、先生への安心感や信頼感が確かにあることに気づき、その気づきがまた、私を深いヒーリングへとつなげていっているのを感じます。 こんなふうに意識されるまで、比較的時間がかかったと思います。でもこれが、私らしい時間のかけ方だったのだと、今は思います。 思い返せば、最初から先生には「引っかかる感じ」がありませんでした。自然で楽な感じ。それが回を重ねるごとに、確かな安心感へと変化していました。 私が自分自身の人間関係を振り返ってみると、最初に「引っかかり」や距離感を感じなかった人と、結構時間をかけながらゆっくりじっくり関係をつくっていっている方かなと思うので、カウンセラーとも、そういうふうに関係をつくっていっているのだと思います。 私が辿っていったように、クライエントさんの、カウンセラーとの「相性」の見極め方も、クライエントさんそれぞれの流

「わたし」というプリズムを光らせる

私はこんな人物です、ということを表現しようとすると、自分にはたくさんの側面があることに気づきませんか? そのたくさんの側面は、プリズムのようで、当て方によって違って光る… でも、一つの方向からの光の印象が強烈に残り、動かずに心に残っていることもあります。 私にとっては、「頑固だ」という言葉です。 まぁ、確かに、私は「頑固」です(汗)。 これが、ネガティブな側面として私の中にずっとこびりついてきました。 これは自分で語ってきたものではなく、周囲から言われたものです。 その発言に良いニュアンスがないことは明らかで、私はそのニュアンスが自分そのものだとして引き受けてきていました。 でもそうじゃないんだ、と、気づきました。 私は自分の考えや意思がはっきりしているほうで、場合によっては柔軟性に乏しいところがあるのだと思います。 でも「頑固な人」という表現にこめられていたのは、言った方にとって、私がその人の思うようではなかったということです。 つまり頑固なのはその人の方のはず!!! 外国に行けば、私の頑固なんて、ホントかわいいもんですよ~。 外国で過ごしたり、日本以外の人とコミュニケーションをとることで目が開かれました! こういうような、「あなたは〇〇だね」という言い方をする人に時々会うことがあります。 客観的な表現をしているようでありながら、あるいは、冗談のような雰囲気をまといながら、実は他者を非難したり卑下したりするこのような発言の仕方には注意が必要! この発言は、プリズムの光ではなく、まるでレーザーのよう。グサッと入ってきて、プリズムの動きを止めてしまうパワーを持っています。 私はこのことに気付いて以来、この類いの言葉も、こういう発言をする人との関係も、自分の中に入れないようにしています。 一方で、言われてとても納得というか、うれしかった言葉を受け取ったことがありました。 「直感の人」という言葉です。 これを言われたとき、「うん、確かに!」と、ものすご~く納得したのですが、言葉がスッと私の中に入ってきたのは、そこに非難も評価も感じなかったからだと思います。 むしろ興味深い側面として見てくれた温かさがありました。私のプリズムの中で、当たってなかったところに光を当ててくれたのです。 この違いはなんでしょう? 私は、「温かさ」「愛」「優しさ」を感じられたかどうか、にあると思いま

感情を知る、自分だけの時間、自分のペース

私は子どもの頃、両親から、「何を考えているのかわからない」と時々言われていました。 どういう状況で、なぜそう言われたのか、そういうことはすっかり忘れてしまっているのですが、この言葉はずっと残っています。 言葉は、一度口から出たら、もう自分のものだけではなくなり、それを聞いている人のものにもなります。 そして一度出た言葉は、ずっと長く、ずっと遠くまで生き続けます。 その時の文脈を越えて、浸み込んだ人の心の中で遺っていきます。 私は子どもの頃、喜怒哀楽の表現があまりハッキリと出ないタイプでした。それで両親にそんなふうに言われてたのでしょう。 確かに、大喜びして飛び上がるとか、ワンワン泣くとか、大声で怒るとか、あまりそういう記憶はありません。 自分からどんどん話すほうでもなかったので、余計に、周りからは「何を考えているかわからない」と受け止められていたのかもしれないなと思います。 「何を考えているかわからない」と言われて覚えているのは、そう言われて、それこそどう応答したらいいかわからない気持ちになっていたことです。 考えや気持ちがない、と自分で思ったことはなかったのですが、それを言葉にし、口に出し、人に伝えるのが、あまりスムーズにできない感じは確かにありました。 これって、どんなふうに言えるのだろう。 どういうふうに伝えることができるのだろう。 そんなふうな、戸惑いのような感じが付きまとっていたなぁ、と思います。 以前に、 山は黙々と歩くのが好き、ということを書きました が、それと同じで、私は書く方が話すよりも気が楽だったのを覚えています。 ドラマ 「メイドの手帖」 の主人公アレックスは、DV被害を逃れて必死に自立しようとする中、書くことだけは続けてきていました。アレックスはDVシェルターの文章教室でこんなふうに言っています。 私は書くことで正直になれるし、自分の気持ちを知ることができる。 何を書きたいか知るために書くの。 真実は声に出すより紙に書く方が簡単だったの。 誰にも邪魔されないし、“お前が間違ってる”とは誰も言えない。 それはあなたが間違ってないからよ。 自分の言葉だもの。 クライエントさんの中には、「感情がわいてこない」「感情が感じられない」「どうやって気持ちを感じるのかわからない」と言う方が少なくありません。 でもそれは、感情がない、ということでは決してない

心に残る人

味噌の仕込みシーズン。 今年は例年よりちょっと早く仕込み終えました。 味噌づくりは一日仕事、体力仕事。味噌に限らず、「作業」はセラピューティックな性質を持っていますので、日常の中に、生活の中に、ときどき作業する時間を入れるのは役立つと思います。 味噌作りについては、大豆をつぶす、麹に塩を混ぜていく、材料全部をグイグイこねていく、そしてエイヤッと容器に叩きつける(空気を抜くためです)。こういう手ざわりや動きがなかなか良いのです。 こうやって作業している間に、ふと思い巡らせたり、考えたりしていました。 一つは、去年亡くなった人のことでした。 数年にわたる闘病が続いていて、長くお目にかかっていませんでしたが、ある日ふと、「どうされてるかな…」と思い出しました。その日に亡くなったのだと、後から聞きました。他にも同じような体験をした人がいて、どうやらいろんな人に挨拶して去っていったようです。 私はこの方と親しくしていたわけではないのですが、不思議と心に残っている人でした。 まだお元気だったころ、個人的に困ったことが起き、相談する人としてこの方が真っ先に浮かびました。同じ立場で、同じような経験をされてきているのは知っていましたが、それだけではなく、ちゃんと話を聞いてくれ、私に必要なことを言ってくれるだろうという信頼がありました。そして、その人の話が、本当に役立ち、助かりました。 難しいテーマだったのですが、自分なりに考えたことや、すべきことをできたと思えたのは、この時間のおかげでした。 この方のお話、真摯に対応してくれたこと、それが私の心にずっと残っているのです。 こういう人、こういう出逢いってありませんか。 親しい関係だったわけではないけれど、あるいは、人生のある一時であったにも関わらず、自分の中に確かに残っている記憶。 その時には大きく心を揺さぶられることではなかったのに、ずっと心に残る言葉や表情。 心のある位置にずっとあって、いつも思い出したり考えたりはしないけれど、静かに確かに存在する人。 心の中のその思い出にゆっくりと目を向けると、びっくりするぐらい大きくて、それが自分の支えの一つであったと気づくような。 そこには、その人と自分の、何か特別なつながりがあるのだと思います。 このつながりの感覚。 普段は感じないようなものでも、誰の心にもあるのではないか…と、クライエント

顔や姿を失った二つの物語~「青年期失顔症」の朝葉と姿が見えないムーミンのニンニ

TikTokで紹介した本がベストセラーになる「けんご」さんについての 新聞記事 で、けんごさんが「 青春ゲシュタルト崩壊 」(丸井とまと作)をおススメしていて、興味をもち読んでみました。この本は第5回野いちご大賞受賞作だそうです。 こんなお話です。 高校2年生の朝葉は、部活の人間関係のストレスが頂点になったとき、自分の顔が見えなくなる「青年期失顔症」になってしまう。朝葉はこれまでずっと、どんなことも頑張り、我慢し、飲み込んで生きてきました。周りの顔色をうかがい、嫌われないよう周りに合わせて。 「青年期失顔症」になったと知られることは、これまでの言動は本心ではなかったということが知られてしまうことになる。これまで必死に保とうとしてきた生活や人間関係が崩れることになるので、朝葉は必死に隠そうとします。 朝葉は、学校という「狭い水槽のなかで、溺れないように必死に泳いで生きて」いて、「同じであることが正しいって思い込んで、(噂話や悪口は毒だとわかってても)必要であれば食べてしまって」いたのです。 そんな中、「青年期失顔症」で倒れた朝葉を助けた同級生の聖と過ごすうちに、本当にやりたいことを見つけ、本当に言いたいことをきちんと言葉にする、ということが少しずつできるようになって――― ※「青年期失顔症」は小説の中の架空の病気で、実際はありません。 姿が見えなくなる、というお話で思い出すのは、ムーミンのニンニです。 一緒に暮らすおばさんの辛辣な言葉によって、ニンニの心はむしばまれ、自分に自信をなくし、心を閉ざしていきました。ニンニはそうして他の人から姿が見えなくなってしまったのです。 この二つのお話が違うところは、朝葉は自分が見えなくなる一方、ニンニは他の人から見えなくなる、というところです。 ニンニが透明になったのは、他の人から攻撃を受けてきたから。そして結果的に、透明になることは自分の身を守ることにもなっている。 朝葉が自分の顔が見えなくなったのは、周囲に合わせるあまり、自分を見失っていったから。 二つのお話に共通するところもあります。 それは、その人をそのまま受け止めそばにいてくれる存在がいたこと。その人との関係の中で、姿や顔が見えるようになってきたことです。 朝葉には聖。「…うれしいこともつらいことも、打ち明けられる相手がいるかどうかが重要なのよね」。 ニンニには愛情たっぷ

他者の怒りに直面したとき③

他者の「怒り」(攻撃)に直面したときどう対応するかの、2つ目の要素についてです。 2つ目は、「怒り」は関係性をつくるものであり、深めるものだという点です。 怒りは、信頼関係をつくるプロセスに大きな役割を果たしています。「怒り」の感情を処理していくプロセスは、信頼関係を感じたり、つくったりするプロセスそのものになります。 これは、二人の関係が良くなるというだけの意味ではありません。親密さや安心がより積み重なっていくこともあれば、適切な距離をとる方向に向かうこともあります。 ※ここで取り上げるのは、業務ではない関係性、つまり、家族や友人の場合を想定しているものです。職場の人間関係でも一定当てはまると思います。 他者が怒って攻撃的になっているとき、「怒るのはいいけれど、八つ当たりは受け入れられない」ということを伝え、それが伝わる場合は、このプロセスをスタートすることができます。 怒っていいんです。でも攻撃はダメ。 相手が拒否してさらに攻撃が増す場合は、あなたも拒否してその場を離れましょう。そうでないと、あなたも緊張が高まって、たいていの場合はお互いにしんどくなったり、危険な場合もあります。 そして大事なのはここから。 怒りは何かを主張しているので、「怒り」の主張に耳を傾けてあげる必要があります。「怒り」は、聞いてくれる誰かを必要とする感情です。 その「誰か」として、あなたが、その本人と一緒にその「怒り」に耳を傾けていくことが、二人の関係をつくり、深めていくことにつながります。 これは「怒り」(その人の主張)の言うとおりにするという意味ではありません。まずは言い分を聞こうじゃないか、というものです。 ですからこう伝えるのはどうでしょうか。「八つ当たりをせず、落ち着いて話せるなら、話を聞きます。」 とはいえ、相手はヒートアップしてます。 ですので、まずはこちらから。 一つは「自分で落ち着かせてから来て」。もう一つは、「落ち着くのに助けが必要なら、手伝います」。どっちがいいか選んで、と提案もできます。 後者は子どもには助かるし、必要だと思います。気持ちを落ち着かせるスキルをつけていくことができますから。方法としては コレモ などが参考になると思います。 こうやって攻撃を鎮め、「怒り」が、きちんとその主張を言える状態をつくります。 そうすると、「怒り」が求めていることがきちんと見

他者の怒りに直面したとき②

このブログは 前回 からの続きになります。 他者の「怒り」に直面するなかでのポイントとして、怒りと攻撃を分けること、そして、攻撃は受けるがままになっている必要はない、ということを書きました。 他者の怒り/攻撃とはいっても、「他者」が誰で、どういう関係で、どういう場面かによって、できる対応、してもよい対応はかなり違ってきますし、個別性が大きくなります。 そこで今回は、対応の方法ではなく、中核と考える二つの要素について書きたいと思います。 まず一つ目は、一人にならないこと。誰かとのつながりをもつこと。 これは怒り/攻撃を受けているその場面で、という場合もありますし、心の中で、という意味もあります。 他者の怒り/攻撃の圧力はとても大きく、受ければさまざまな感情反応が起きます。その反応には、ベーシックな感情そのものあれば、その感情から派生する考え、そしてその考えによって生じる感情など、さまざまなものがあります。 恐怖。ショックや驚き。怒りやイライラ。悲しみ。不安。あきらめや投げやりな気持ち。自己嫌悪や自己否定感…。 こうやって自分の中に起きた感情反応は強烈なので、自分の感情だけで手一杯、目一杯になります。それはしんどい。相手の怒りに落ち着いて対応することは簡単ではありません。 私も家族にイライラをぶつけられたら、ものすご~くイライラしてきます!(逆もよくやってしまってますけど💦) お伝えしたいのは、ご自分の「キャパ」の問題だというような方向で考えなくてもよい、ということです。 このとき、二者間に生じた火に油を注ぐ、なんてことをしない誰かの存在は、緩衝材になったり、小休止をもたらしてくれます。 お母さんに怒られた幼児が、「ママなんか嫌い~!」と泣きながら走っていくパパとかおばあちゃんのような存在。その時に、「ママ、なんてことをしたんだ!」って言わない人。「そうか、そうか~」と抱っこして話を聞くような存在です。 大人であれば、上司のハラスメントの場合は、二人にならない場へ。お客様であれば、複数で対応する。通りすがりの人は、警察や管理者。子どもの怒りは、パートナーと共有などなど…。 その誰かにそばにいてもらい、怒りのもとになっていることを共有し、ヘルプを得て、みんなで解決していくことができれば、怒りのエネルギーは適切に処理され、無用な攻撃の拡大を避けることができるでしょう。 で

今年もよろしくお願いいたします

明けましておめでとうございます。 私が住む地域は寒暖差があったお正月でした。山が雪で真っ白になって、きれい~!と思ってたら、翌日にはすっかりとけてたり。 昨年は、開業という、私にとって大きな一歩を踏み出した一年でした。 昨夏に開業して半年、たくさんの方にアクセスいただきました。本当にありがとうございます。 私が住む関西よりもずっと遠方の方々、また海外にお住いの方ともお目にかかることができました。 オフィスではきっとお目にかかることはなかったクライエントさんとご縁があったのは、オンラインならでは、です。 今年は、今トレーニングを続けているAEDP™セラピーの、認定セラピストを目指していきたいと思っています。 準備など、ハードルが高い申請なのですが、でも、一歩ずつやっていきたい、やっていくんだ!という気持ちでいっぱいです。 それは、これまでお目にかかったクライエントさんとの、貴重なセッションの積み重ねがあるから。 そして、支えてくれているスーパーバイザー、一緒に研鑽を続けている仲間がいるからです。 私はクライエントさんにセッションを提供していますが、その私は、スーパーバイザーに支えられている。スーパーバイザーもまた、別のセラピストや、スーパーバイザーに支えられています。 そうやってつないで、つながっているご縁を、昨年はたくさん感じさせていただきました。 今年もまたこのつながりを紡ぎ、よいセッションをご提供できるよう、一層努めていきたいと思います。 今年もよろしくお願いいたします。

怒り:いとうせいこう(作詩・リーディング)土取利行(三弦)

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前回のブログ「 他者の怒りに直面したとき① 」を書いたあと、ブログを読んだ方から、いとうせいこうさんのリーディングの動画を紹介していただきました。 これがとても素晴らしく、私が自分のためにブックマークしておきたいとも思いましたので、ブログに載せさせていただきます。 「君が美しいのは 怒りとつながっているとき」 「暴力と怒りを取りかえてはならない」 「君が美しいのは 怒りを誰かと共有するからだ」 怒り:いとうせいこう(作詞・リーディング)、土取利行(三弦)

他者の怒りに直面したとき①

これまで、自分自身の怒りの感情について書いてきましたが、今回は他者の怒りに直面したときについて書きます。 他者、といっても、いろいろな状況や関係性があります。 家族の怒り。 友人・知人の怒り。 職場の上司や指導者の怒り。 お客様の怒り。 通りすがりの人の怒り。 インターネット上の怒り。 これまでのブログで書きましたが、怒りの感情自体は、自然で理にかなっており、とても大切な感情です。 ですから、怒りが大切な感情である、ということをみんなのものにするためには、怒りの作法や共通ルールのようなものがあるといいのかも…。 この作法や共通ルールの前提として、怒りの感情と攻撃行為を分けることがあります。 怒りはOK。でも攻撃はNG。 他者の怒りを受けて耐え難くなるのは、攻撃を受けている状態だと思われます。 攻撃の形で怒りを表す人を相手にするのは、とても難しいことです。 なぜなら、攻撃のパワーに傷ついたり辛くなったりするだけでなく、攻撃する人はたいてい、攻撃を正当化することが多いからです。自分には怒る理由があるとか、怒るに相当することだからだと考え、その攻撃を正当化します。 そういう人を相手に、「怒りは聞きますが、攻撃は受けません」と言っても、すんなりとはいかないことのほうが多いでしょう。それどころか、攻撃がさらに大きくなる傾向があります。 「怒りの作法のようなものが必要なのではないか」と書いたのは、ここに理由があります。 つまり、怒ってもいい、でも攻撃はだめだ、ということがみんなの共通のものにならなければ、他者を攻撃する人の自己正当化は止まないからです。 さらに問題なのは、攻撃をする人は、攻撃ができる人、ということです。 攻撃ができる人というのは、力を持っている人。 社会的・経済的地位、男性性、年齢… 人に限りません。組織も国も、より大きい力を持っているから攻撃できるのです。 大きなレベルで平然と行われているのですから、問題は個人と個人の間だけではありません…。 とはいえ、前進もあります。 ハラスメントの言葉が浸透し、法制度ができたのは、攻撃は受け入れられないものだという社会的認識となりました(まだ途上ですが…)。 DV法や児童、高齢者、障がい者に対する虐待防止法、いじめ防止の法律も同様です。他者への攻撃はNOだという共通ルールです。 ヘイト・スピーチやインターネット上の誹謗中傷