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怒り、という大切な感情 ~“怒りを感じられない”

怒る、って簡単ですか? それとも、難しいですか? まず、「怒り」の感情は、とても自然なものだということを最初に言いたい。 この「自然さ」は、悲しいとか、うれしいとか、楽しいとか、寂しいとか、そういう、他の様々な感情と同じで、身体と心が反応し、生じるもので、それに良いも悪いもない。 それをまず最初に書いておきたいと思います。 そのうえで、怒りの感情は、自分自身に対しても、周囲の人に対しても、とても大きなパワーを及ぼす感情なので、「取扱い」はなかなかやっかいなところがあります。 私は、配偶者やパートナーから暴力を振るわれている人の相談に数多く対応してきました。 また、マイノリティの、差別や不当な扱いについての相談もこれまで数多く対応してきました。 そういう相談を受けてきたなか、「被害者」のほとんどは、「加害者」に対して、怒りを感じていないことが多いなと思います。 怒りを感じなくなっている背景には、こんなことがあります。 相手に怒りを見せたり、ぶつけたりすることで、より危険な目にあうので、護身として怒りを鎮めてきた 相手に怒りを示しても、状況は何も変わらないか悪化するので、我慢することのほうがマシな選択として積み重ねられてきた 自分の怒りを否定したり、馬鹿にしたりされるので、怒りを感じている自分のほうがおかしいのではないかという経験が積み重なってきた 「怒るほどのことではない」「怒るあなたがおかしい」「怒るなんて大人じゃない」といったメッセージをあまりにも受けすぎて、怒りを感じる自分を、自分で抑圧してきた 怒りを見せても、誰も取り合ってくれなかったり、何も変わらないという経験のために、自分は無力だということが常態化してきた 大切なはずの相手にたいするあまりにも強い怒りは、自分の状況や存在や歴史を否定するような感覚になるため、怒りを感じたくなかった どの人も、どれほど孤独に怒りに耐え、怒りを抑え、怒りを隠してきたかということが見えます。 だからまず、カウンセリングにアクセスしてくれたことを、本当によかった!と心から思います。 どんな感情も、一緒に感じてくれる、その気持ちを知ってくれている、受け止めてくれる「誰か」の存在がとても重要ですが、「怒り」はそのなかでも、最も「誰か」を必要とする感情なのではないか、という感じがします。 その怒りは正当なものだ、と その怒りは大切なもの

「すべての山に登れ」

紅葉の季節。 近くの山に行きました。 見上げれば色づいた紅葉と空。足元は落ち葉がカサカサと優しい音をたてていました。    時々、近くの山に行きますが、以前はちょっと本格的な登山をしていました。日本ではアルプスや北海道などの山々。海外へも登山旅行を何度かしました。 「山ガール」や「中高年の山歩き」もまだなかった頃。山は比較的静かな場所でした。 私は、連れとのおしゃべりを楽しんだり、景色や自然を満喫するよりもむしろ、ただただ、もくもくと歩くのが好きなほうです。せっかくの景色や自然、鳥の声に目を向けないのは、もったいないような気もするのですが、山に行くと、そういう気持ちや欲求よりも、どうも身体が自然とズンズン動いていくようです。 「呼吸は自分の歩み、歩き方に合わせるのが大事だ。(中略)呼吸をうまくやるのは、登っているときに常に自分の体に問い続けることだ。『どのペースが一番楽だと思う?』とね。するとリズムが少しずつわかってくる」 〔「藤原章生のぶらっとヒマラヤ」毎日新聞2021年6月29日(火)夕刊。ネパールのダウラギリ登山中、スペイン人登山家カルロス・ソリアさん(81歳)がダウラギリ(8,167 m)登山で語った言葉。〕 呼吸のリズム。身体の声。 自分を見つめていくとき、体験を深めていくとき、カウンセリングでもとても大切なことです。 山を歩く、ということについては、こんな歌があります。 ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公のマリアが自分の方向性に戸惑っていたとき、修道院長が彼女に歌った歌です。  「すべての山に登れ」   すべての山を登りなさい 高きも低きをたずね あなたの知るすべての道 あらゆる小径をたどるのです すべての山を登りなさい あらゆる流れを渡り あなたの夢を見つけだすまで あらゆる虹を追え あなたが与えうる限りの愛 その必要としている夢 来る日も来る日も あなたが生きつづけるかぎり すべての山を登りなさい すべてのせせらぎ 流れを渡り あなたの夢を見つけだすまで すべての虹を追うのです (Sound of Music, "Climb every mountain") 生きていく中での迷い。方向性を見失って、立ちつくしてしまうような時。 暗闇の中で、トンネルの中で、身動きができないようなこと。 そういうなかでも、人は

「ポジティブ」を拡大する ~AEDP™セラピーの選択と実践④

自分を肯定するということについて、以前 ブログ に書きましたが、今回ももう一度同じテーマで、でも、少し違った視点から書こうと思います。 というのも、最近仕事で、私は自分で自分のことを認める視点を持っていなかった!と気づいたからなのです...。 それで、自省もこめて、このブログを書きます。 私はAEDP™セラピーという心理療法をベースにカウンセリングを行っています。アメリカのAEDP™研究所の認定セラピストを目指して、現在もトレーニングを続けています。 AEDP™セラピーは、クライエントさんの問題や病理に注目し、それを改善や治療するという考え方をとっていません。クライエントさんは、たいてい、辛い、悲しい、苦しい、混乱している、などの感情を抱いてカウンセリングに訪れます。そういうしんどい気持ちや状況をなくすにはどうすればよいか、というのが、従来の心理療法のスタンスです。 AEDP™セラピーのスタンスは、「癒されたい」「自分を高めたい」「人とつながりたい」といった、クライエントさんがもともともっている原動力に注目し、それを引き出していくものです。 こういう原動力は誰にもあるのですが、クライエントさんのそういう原動力は、隠れてしまっていたり、抑え込まれてきていたり、じっと時を待っていたりして、クライエントさん自身には感じられなくなってしまっています。 私はもともと、こういう視点を大切にするやりかたでカウンセリングを行ってきましたが、AEDP™セラピーのトレーニングを続ける中で、それをもっと早く、もっとはっきりとクライエントさんと共有していくプロセスができるようになってきたと思います。 だから、クライエントさんのこの原動力を見つけるのがとてもうれしいし、それに注目して、一緒にこの原動力を大きくしていくプロセスも、クライエントさんのすごさに胸がいっぱいになることがたびたびあります。 ところがところが。 私自身が、それをAEDP™セラピーのトレーニングの中で行っていなかった…ということに気づいたのです...(汗)。 心理カウンセリングのトレーニングでは、SV(スーパービジョン:自分が行ったセッションを指導者に見てもらい、アドバイスなどを受けるトレーニング)がとても重要です。SVを受け続けるのは、カウンセラーとして必須で、私も継続してAEDPのスーパーバイザー(指導者)にSVを受け

ホンモノ、の体験

あなたが、深く深く心を動かされたとき。 その感覚はどんなものでしたか? その感覚の確かさ。それは、あなたにとって、まさに真実な感じだったのではないでしょうか。 その感覚、体験について、思考を巡らせれば、何が良かったとか、どうしてそう思うのかとか、そういうことを言い表せるかもしれません。 でもその考える前の、言葉にする前の、その感じ。 その感覚は、あなたに、 あなた自身が体験しているのだ、 あなたが実際に知ったのだ、 あなただけの、誰のコメントも侵入することはない、あなたの感覚なのだ、と 告げているのではないでしょうか。 この、「ホンモノ」だと感じる体験。 メトロポリタン美術館で、ゴッホの絵を見ました。 初めて実物を見ました。 あの、油絵の具のもりあがるうねり。質感。 立ち止まって動けませんでした。 写真で見た絵は、興味を持つでも持たないでもない、私にとっては、何でもないものでした。 でも本物は違いました。 ゴッホの筆の力が、私に響き、その力で身動き取れないような衝撃がありました。 「待ち合わせの時間だから行かなきゃ」と頭の声で一生懸命自分に言い聞かせて、その場を去ったのを覚えています。 本物のもつパワー。 プライバシーがとても大切な心理カウンセリングでは、他の人の実際のセッションを知る機会は基本的にありません。 心理職は、研鑽の機会として、グループ・スーパービジョン(ケースについての指導を集団で行うもの)や事例検討会があります。これは、提出者(スーパーバイジーと言います)のケースをもとに勉強する機会ですが、一般的には、スーパーバイジーが作成した資料をもとに検討を進めます。 ですので、セッションのリアルな場面にふれるものではありません。 ところがAEDP™セラピーのトレーニングでは、講師が、自分が行った実際のセッションの動画を提示し、解説してくれます。 研究所の教員であるセラピストの、実際のセッション動画は、本当にすごい。 すばらしさは衝撃的で、ずっと余韻が残ります。 そういう、「ホンモノ」にふれて、感動、感嘆したあと、さて自分を振り返ると、自分の未熟さや至らなさ、問題点ばかりが目につき、がっくり落ち込みます…。 自分の限界を思い知らされるような気持ち。 でも本物を知ってしまった以上、もうそこからは目を背けられない。 「アマデウス」のアントニオ・サリエリって、こんな気

「真実の他者」~AEDP™セラピーの選択と実践③

  「自分と周りの人との距離感をイメージしてみる」 のタイトルのブログ記事で、自分を中心にして、身近な人や周囲の人が、自分からどのくらいの距離感にいるかマッピングしてみる、というワークをご紹介しました。 自分にとって、大切かどうか、安心かどうか、信頼やつながりを感じられるかどうか、といった心理的な距離感を紙に落とし込んでみることで、自分を中心に他者との距離感を感じてみるというワークです。 今回のテーマは、このマップの中での、自分に最も近いところにいる人について。 私は、自分の最も近いところに、ある「まなざし」がある、と感じています。 (この日本語、ちょっと変ですね💦すみません。) 私のカウンセリングのアプローチであるAEDP™のトレーニングでの経験をお話します。 トレーニングは、小グループに分かれて、体験ワークを行います。 私は短期集中型のコースに参加していたので、5日間毎日同じメンバーでワークをしました。 あるワークのテーマは、「怒り」でした。 心理士の研修では、ワークを安全に進めるために、感情的に最大を10としたら、1~3ぐらいのものをテーマに選びます。 私が選んだのは、だいぶん前に経験したことで、「今なら相手にハッキリと言い返したい!」と思うようなことだったので、それを選びました。私にとってはごく小さい出来事です。 そして、セラピスト役の人に、その話をしました。すごく腹立たしい出来事だったけれど、その時はハッキリ言わなかったから、ちゃんと怒りを出してみたいんです、と。 私は彼女を見て話していたのですが、ある瞬間に、私をじっと見る瞳が私の目に飛び込んできました。 とても一生懸命、とても真剣に、とても私のことを思って、私の経験と気持ちをしっかりと受け止めて聞いてくれている、それがわかる目でした。 その瞳が目に飛び込んできた瞬間、私の目から、突然、わっと涙があふれたのです。 怒るのではなく。 ただ泣いていました。 そしてわかりました。 私はもちろん怒りをもっていたけれど、それだけでなく、それ以上に、その当時の私は、一人で立ち向かわなければならなかったことに、不安と孤独を感じていたのでした。 彼女は、その私と一緒にいてくれた。 彼女の眼差しが、それを伝えてくれていたのです。 この眼差しは、「真実の他者(True Other)」という体験でした。 彼女のまなざしが、私

「undo aloneness」~AEDP™セラピーの選択と実践②

私がAEDP™セラピーという心理療法でカウンセリングをしていきたいと思い、今も研鑽を続けているのはなぜか? AEDPの何が私を惹きつけ、心を打つのか? AEDPの何に共感しているのか? 私が感じた感動やよろこびを、クライエントさんも感じてくれているのではないか、と思えるのはなぜか? その前に、私が、社会人を経て心理職へ転職することになったきっかけの一つについて話したいと思います。 プロフィール に少し書いていますが、私は、転職して心理職になりました。 そのきっかけは、私の身近なところで起きたいくつかの出来事でした。 当時私は、若かったこともあるのでしょうが、すごく一生懸命でした。なんとか解決したいと思い、心を痛め、行動していました。 でも何よりもつらかったのは、理解されない感じ、腫れ物に触るように距離を置かれているような感じ、ひどい場合は、批判されているような態度。 疎外感と孤独感が続いていました。 起こってしまったことは、もうどうしようもない。けれど、その時に必要だったのは、私の話に耳を傾けてくれること。 そして、その人の、本当の声を聞かせてくれることでした。 心からの対話を必要としていたのです。 つらかったのは、起きた出来事だけでなく、その後、つながりをもてなかったこと、孤独な状態にいたことだったのだと、今はわかります。 実は初めのころ、混乱した気持ちの最中、私は相談機関にアクセスしました。しかしその対応は求めていることではなく、それどころか、ぞんざいな感じが伝わり、怒りも覚え、ヘルプを求めることをきっぱりとあきらめたのでした。 私が孤独感を感じ続けていたのは、この残念な経験からスタートしました。 しかしその後しばらくしてから、「とても大切なことだと思うので、話を聞かせてほしい」と言う人が現れました。 その人の目には、真摯さが感じられました。 話を始めていくと、他にも耳を傾けようとしてくれる人が現れました。 こうやって始まった対話は、それぞれの心の奥へと一歩踏み出し、深く触れる時間となりました。 話す私も、聞く人たちも、答えを求めているわけでも、答えを導こうとしたわけでもなかった。私も、その人たちの心の声を聞く役にも回りました。 ただ、それぞれの本心とともにいたのでした。 そうやって初めて、私は、悲しく苦しかった涙が癒されていったのを経験したのです。 この時の経

私の内なる「感覚」に結び付いているものを探して~AEDP™セラピーの選択と実践①

先週から、2週間に1回、冬休み期間をはさんで来年の5月まで、全部で13回の講座が始まりました。アメリカの東部時間で実施しているので、日本では夜の11時~2時(アメリカ冬時間のときは0時~3時)という、かなりきついスケジュールで、心身ともにムチうって参加することになりそうです。 これは、私がカウンセリングで行っている、AEDP™セラピーというセラピーの講座ですが、通常のセラピスト養成のためのトレーニング講座とは異なり、AEDPの理論や哲学を深めることが目的になっています。そのため、大量の文献購読が課されています。 私は実は、英語はそれほどたいしてできるわけではないのですが、そんなふうなのにこの講座に申し込んでしまっていて、自分の無謀さにあきれています…。 でもこれは今に始まったことではなく、思い起こせば記憶が残る幼少期からありましたし、このAEDPのトレーニングも、今までもすごい無謀なチャレンジをしてきました。 始まったばかりの講座の中で、AEDP™セラピーの創始者で、今回の講師でもあるダイアナ・フォーシャが、「なぜAEDP™セラピーを始めたのか」「AEDP™セラピーの何があなたを惹きつけたのか」「理論はあなたにとってどういうもので、どのように大切なのか」ということを問いかけています。 確かに、私は、自分でも不思議な感じがすることもあります。 私はなぜ、自分にとってハードルが高すぎるにも関わらず、こんなふうに挑戦しているんだろう? セッションをやっていてやりがいを感じることが大きいとはいえ、なぜこんなふうに自分の時間や力を一生懸命注ごうとしているんだろう?(英語がダメなので、人の何倍もかかりますから…) それについて、あまりハッキリした答えがあるわけではありません。 「ただ、やりたいから」。 ですが、ダイアナの問いかけを受けて、この1週間、いろいろなことを考え始めました。 そのことを、こうやってブログを書きながら、自分の中で整理してみようかなと思います。 心理カウンセリングには多様なアプローチがあるのですが、私は、そのうちの一つをしっかりと学び、身に付け、実践する、というようなやりかたをしてきませんでした。臨床現場で指導を受けながら、その指導者のアプローチをベースに、他にも研修で学んだことも自分なりに取り入れながらやってきました。これは、他の心理士の多くも同じだと思い

嫌な人と距離をとる

他者との距離感についてのテーマの3回目です。 自分が安全だと感じる状態、範囲の感覚についてが 1回目 。 2回目 は、周囲の人との位置関係のイメージをマッピングしてみました。 そしてそのマッピングの中で、「自分の安全圏をぶち破ってくる」にも関わらず、自分の世界に位置がある人の、その距離感についてどうするか、ということを最後に書きました。 その人と、一定の距離を保つことが可能ならば、ぜひそうしましょう! 「お付き合いしとかないといけないんじゃないか…」というような関係の場合でも、礼節を保った対応に留めておけばOKなんじゃないでしょうか? 笑顔で挨拶する。 お礼は言う。 軽い世間話程度は、円滑なコミュニケーションとして行う(やってもいいと思うとき&時間があるとき限定)。 このくらいでOKでは? それ以上のことを、この距離の人とする必要はないのではないでしょうか。 だって、そんな距離の人ですから! 「そうは言っても…」と、モヤモヤ感じたり、不安がムクムクと起きるようでしたら、それは、自分の中に、そういう不安感にまつわる、もともとのテーマがあると考えられます。 (それはカウンセリングで取り上げていくのに、よいテーマでしょう。) では、一定の距離を保つことが難しい人の場合。 自分にとって良いことはないとか、良いこともあるけど害が大きくて差し引きマイナスだと感じるのならば、 生きていく中で、今の状況で、「自分の安全圏をぶち破ってくる人」との関係に、もっとずっと距離をとる、あるいは、関係を完全に断つ(=あなたの世界からは出てもらう)ことは無理なのでしょうか? それはどんな人でしょう? 家族? 職場の人? 学校の同級生? 隣の家の人? ママ友? 作家の高橋源一郎さんは、「家族はたまたま一緒の船に乗り合わせたメンバーにすぎない。だから行先が変わったら、船を乗り換えたらいいんだ」ということをよく書いています。 もしかしたら、自分はもう、その人とは行先が異なっているかもしれません。 それなら、その人はもう自分の世界にはいなくてもいいのです。 そう思えたとき、その「船」から出るのは、相手ではありません。自分なのです。 そうするのは、悔しい気持ちになるかもしれないけれど。 自分が、船を出て、自分の船をつくったり見つけたりして、漕ぎ出さなければなりません。 カウンセリングで、自分を攻撃する相手

自分と周りの人との距離感をイメージしてみる

前回 、他者との距離感について、実際的に体験してみるワークをご紹介しました。 距離には、実際の物理的な位置関係と、心の中での距離感とがあります。 遠いところにいる人だと、心の中の距離感も、比較的遠くになりやすいでしょう。あんまり接点がないですから(とはいえ、ネットですぐにつながるので、そうとも言えなくなってきたところはあると思いますが)。 前回ご紹介したワークは、安全感を、身体で感じるというものでした。 今日は、心の中での感覚やイメージを取り上げます。 前回のブログの最後に、「実生活では、自分のこの安全な距離を失礼にもぶち破ってくる人と直面しなければならないことは多いかもしれません」と書きました。 そういうふうに感じることがよくあるなぁ…と思う場合、それはどんな相手でしょうか?そして、どんな場面で? まず、その相手は、自分にとってどういう人でしょうか。 これは、「私の親です」とか「私の友人です」みたいに、自分とその人の関係についてではありません。 自分にとって、その人はどういう存在なのか、という問いです。 ここでもう一つワークをご紹介したいと思います。 (※このワークは、一人では難しく感じることもあるので、その場合は、自分のために、ワークを進めないようにしましょう。そして、安心できる人やカウンセラーなどと一緒にやってみてください。) A4やB4ぐらいの紙を用意し、その真ん中に「私」と書きます。自分の名前を書いてもいいでしょう。 そして、中心の「私」の周りに、安全ラインの円を描きます。円の大きさは、あなたが感じる大きさや形で。 それから、まず親しい人を思い浮かべてみます。ペットや大事な本などでも、信仰があればそういうことでもOKです。 最初に浮かべた人(など)。それは自分にとってどのあたりにいる感じ? そしてその次に浮かんだ人。 こうやって、思い浮かぶ人を、順番にマッピングしていきます。自分にとっての、その人との距離感をイメージし、感じながら。 このマッピングは、自分の感覚やイメージに基づくものですから、どういう位置感覚や位置関係でもOKです。 いかがでしょうか。 日頃会うことがない人でも、ずっと心に残り、心に寄り添っている人がいるかもしれません。その人は、自分の「安全圏」の内側にマッピングされた感じでしょうか。あるいはすぐ近くとか。 逆に、毎日関わりがあるので、紙の

自分の距離感を知る

人間関係における距離感。 結構難しいことってあるんじゃないでしょうか。 相手と自分との感覚が違うとき。 その場で求められる(と思う)感覚と、自分の感覚が違うとき。 そうすると、 自分が我慢したり妥協したりして疲れてしまう... 違いが露わになると不穏な空気が漂ってしまう... 求められる距離感の圧力に苛立ちや怒りを感じる... 相手が近すぎて、恐怖感を感じる... 距離感については、まず初めに大切にしたいのが、自分にとって心地よい、大丈夫、耐えられる、などと感じられる距離がどのくらいか、ということへの注目です。 距離感は文字のとおり、物理的な距離によって感じる感覚からよくわかります。 体験的なワークをご紹介しましょう。どちらも比較的親しい人(たち)と行ってみてください(ワークなので、安全に進めるほうがよいですから)。 【やり方①】 比較的親しい人に前に立ってもらい、その人に正面から近づいてもらう。 ものすごくゆっくりと近づいてもらったり、足早に近づいてもらったりしてみてください。 その人はどの距離にいてもらうとよい感じがするか?少しずつ近づいてきたとき、どのあたりから「近い!」と感じるサインが生まれるか。 これは身体が感じているはずです。なんとなく緊張感がある、ドキドキする、モヤモヤするなどです。 これ以上はダメ、と思う距離感はどのあたりか。 これをお互いにやってみると、自分にとっての(その人との)距離感はどのくらいか、そして、自分はそれをどんなふうに感じているかを体験できます。 【やり方②】 二人以上で行います。 長いロープを用意します。それを自分の周りにぐるりと配置します。 ロープの中心に座ってみて、ロープの輪の大きさが自分にとってよい感じかどうか感じてみます。必要ならもっと大きく、あるいは小さく。 他の人は、それを穏やかに見ています。 自分がその輪の中に座り、ロープの外にいる人を見てみます。また、その輪の中にいることを感じてみます。 どちらのワークも、相手によって、距離感がかなり違うことがわかります。 カウンセリングのセッションでも、ある人(たいていはクライエントさんが苦手とする人)が、どのくらいの距離にいると大丈夫と感じられるか、ということをイメージしてみます。 カウンセリングをしているこの部屋の中にいてもOKか。部屋のドアの外ぐらい?建物の外?もっと遠く?