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切実な問いから始まる ~ハン・ガンさんのノーベル賞受賞スピーチから

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今年のノーベル文学賞を受賞された ハン・ガンさんの記念講演 は、彼女の作品を読んだ時と同じ、言葉の一言一言が全身に染みわたっていくような感覚でした。 心理セラピーは、物語と同じ「質」があると言われます。 ハン・ガンさんは、作品を創っていくとき、「問い」を立て、そこから物語が始まっていくそうですが、心理セラピーもまた「問い」によって始まります。 どうすれば私は苦しみから楽になれるのだろうか? この生きづらさを何とかするにはどうすればよいのだろうか? このような思いの中で、心理セラピーという方法へ手を伸ばしてくれた方が、クライエントさんとして訪れてきてくれるのです。 「引き換えにしてもかまわないと覚悟するほど重要な、切実な問いの中へ入っていき、そこにとどまるということ」 心理セラピーは、その問いが導いていく方へ共に進んでいく場であり、時間。 私が取っているアプロ―チの場合は、その道しるべやコンパスは身体。クライエントさんの身体が求めていることを、身体が示している方向を、クライエントさんと共に歩んでいく時間です。 「長篇小説を一つ書くたび、私は問いに耐えつつその中で生きる。問いかけの終わりに到達したとき──答えを見つけたときではなく──小説は完成することになる。その小説を書きはじめた時点と同じ人間ではいられず、書く過程で変形した私は、その状態から再出発する。次の問いかけが鎖のように、またはドミノ倒しのように積み重なって続き、新しい小説をスタートさせる。」 心理セラピーもまた、「終わり」は「始まり」。 始めたときの「問い」の終わりは、その答えがもたらされたという様相ではありません。 「問い」によって導かれていくなかで、「問い」を持っていた時の「私(クライエントさん)」は変容し、「問い」が「問い」ではなくなるような、「問い」もまた変容するような、そういう地点に辿り着きます。 そこは変容した「私」の、新しい出発のとき。 今回が今年最後のブログとなりました。 ここへ訪れて、読んでくださってありがとうございました。 来年もこんなペースで記事を書いていきたいと思います。 みなさまに良い年が訪れますように…。

ケアと「境界線」② ケアの関係の中で安全な境界体験をするには

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ケアは、自分と世界(誰か/何か)をつなぐ中で行われているもの。 その関係性は、いつも安全であるわけでも、双方向的というわけでもありません。 むしろ、ケアする側とされる側は固定していることが多いですし、 ケアする側は相手に入り込みすぎてしまったり、ケアされる側も、相手から入り込まれすぎたり、 ということが容易く起きてしまう関係でもあります。 自分への侵入を、特に幼少期から受けてきた人にとって、ケアを受け取ることは危険なことになりますし、 誰か/何かをケアすることにおいては、その対象との距離感がつかめず、遠すぎたり近すぎたりして、 それでまたしんどく辛くなってしまう、 ということがあります。 すると、誰か/何かとつながることへの、切なる望みと同時に、侵入体験からくる不安と恐怖も同時におきるという、正反対の感情や感覚が、自分を混乱させ、苦しませます。 そんななかで、どうやって安全なケアの関係を体験していくことができるか、「庭仕事の真髄」にヒントがあります。 著者はイギリスの精神科医で、園芸療法士。 この本は、園芸が、どれほど人の回復と癒しに効果があるのかを、たくさんの例を挙げながら述べています。 なぜそのような効果があるのか? それは、植物は決して人を拒否しないということ、 やりすぎややらなさすぎの間違いを行っても、植物は痛みも不満も訴えないこと、 剪定や間引きなどの破壊的行為をしても、それが植物の成長を促すことであったり、驚異的な回復力を見せたりもすること、 ということを述べています。 「植物の世話は、恐怖を感じることのない関係の中で、自分自身を解放できるようになるとヒルダ (注:NYの刑務所の園芸療法士) は確信しているのだ。草木は人間に対して即座に反応したり返事をしたりすることがない。また、ひるんだり微笑んだり、あるいは痛みを感じたりしても、言うまでもなく人間にはわからない。それが植物の有益な効果の重要な部分だ。幼いころに十分に大事にされなかった場合、それどころか実際に経験したものが虐待や暴力だった場合、後の人生の中で何かを大事にする仕方を学ぶのは、困難に満ちたものとなる。心の中にひな形がないというだけでなく、他者の中のもろさが自分の中の最悪のものを引き出す可能性がある。これが、虐待が無意識のうちに繰り返される理由だ。すなわち、動物や人間の弱さは、自身もかつて犠牲者...

ケアと「境界線」① 奪われた「私」という存在

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ケアは、一人では生きていることができない、生きていることが難しい状態、困難をどうにもできないでいる人や動物などに対して、そのそばにいる人が、自分の身体と時間と心を差し出すこと。 小さなケアから、日々の大きなケアまで、ケアは人と人をつなぎ、ともに生きていくうえでとても大切な営みです。 でも、ケアが「私」という存在を奪うことも起きます。 イスラエルの社会学者であるオルナ・ドーナト著作の「母親になって後悔してる」は、世界中で翻訳され、大きな反響がありました。日本でも多くのメディアでとりあげられています。 子どもを持ったことは後悔していない、子どもは愛している、でも母親になったことは後悔してる。 この思いは、「母親とは献身的で、愛情深いもの」という社会神話の影にある、母親という役割の過重な負担からきていることを、この本は記しています。 「母親」という役割=仕事は、ケアそのもの。 前回のブログ でも書きましたが、ケアは、他者の存在と深く関わるコミュニケーション。 「母親」を課せられたとたん、ケアは毎日延々と続きます。 赤ちゃんの頃は、母乳やミルクをあげ、おむつを替え、寝かせて、というような、身体への関りが主ですが、次第にこころの交流でもケアが大きくなっていきます。 このように、他者(子ども)の様子によって自分が動かなければならない状態が続くと、「私」でいる時間は必然的に少なくなっていってしまう。 薄れてしまった「私」は、いつのまにかケア対象の人に同化してくことが見られます。 そうして、「私」でいられないことへのストレスやフラストレーションを感じたり、自分自身が「自分」という存在を忘れてしまうような状態にまでなることもあったりします。 他者へのケアが続きすぎて自分が失われてしまうような状態にまでなるのは、「母親」に限りません。 「アダルトチルドレン」は、依存症の親を持つ子どもが、親の保護者のようになっていることを指す言葉ですが、これも、親へのさまざまな「ケア」の結果です。 親が依存症でなくても、親が困難を抱えていたり、精神的に不安定だったりしていた場合に、親への過重なケアの関係は生まれます。 こうして、過度なケア、一方的なケアは、「私」という境界を侵食していってしまうのです。 散歩で見つけたハートの石。 でも、どれほど浸食されていったとしても「私」は決してなくなることも消えるこ...

「ケア」と「私」

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 「ケア」というカタカナ用語、元は英語のcareですが、日本語でしっくりくるのは「お世話」でしょうか。 でも、「お世話」ほど関与が大きくないものも「ケア」には含まれているように思います。 ブログがすっかりご無沙汰になっていたのは(前回からなんと1か月以上空いてしまいました💦)、私が「ケア」で謀殺されていたからでした。 これまでの人生で最も忙しい時間だったかもしれません…。 この間は、考えること、時間をとること、ゆっくりすること、そういったことが全くできませんでした。 ケアは、自分自身に対しても使う言葉ですが(セルフ・ケア)、そこには2人あるいは2つ以上の対象が存在します。 私と、もう一人の誰か。 私と、私 私と、ペット 私と、植物 それから、ケアは、相手の様子や状態と呼応しながら行うものなので、頭で考えて行うよりも、身体が反応したり、動いたりしていきます。 例えば、赤ちゃんが泣いたらパッと気づき、駆け寄って様子を見に行ったりしますが、そうする前に、すでに赤ちゃんの様子を気にしている状態が起きています。すぐに駈け寄れるのは、身体がそういう「ケアモード」になっているからです。 「ケアモード」の私=身体の状態と、そうでない私=身体の状態の両方が、ある程度のバランスをもって行ったり来たりしているのがよいのではないかと、私は思います。 ケアモードは、もう1人やもう一つの存在との関係・つながりを感じられる時間。 「私」にとらわれすぎずにいられる時間。 今、ここを感じる時間。 さまざまな感情を感じる時間。 ケアを外れた「私」の状態は、 自分のペースを感じる時間。 物事を深く考えたり、イマジネーションを広げる時間。 過去を思い、未来へとつながる時間。 でも一方、ケアモードは、 自分を見失う時間。 今、ここに縛られ、いろいろなことが無計画になっていくような感覚。 強すぎる感情が辛くなる時間。 そして、ただ「私」でいる状態は、 他者とのつながりが感じられず、孤立を感じる時間。 思考が出口なくグルグルとめぐる時間。 過去に後悔し、未来を不安に思う時間。 どちらかに偏っているな…と感じた時に、反対のほうの時間をとってみるとよいかもしれません。

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ②

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「マインドフルな気づき」というのは、今、この瞬間瞬間に起きていることを、評価や価値判断なしに、ただ「ありのまま」に見ているという状態です。 「昨日、上司にミスをとがめられた」という場面を例にしてみましょう。 そのことを思い出すと、恥ずかしい気持ちで苦しくなるかもしれませんし、怒りでイライラしてくるかもしれませんし、不安で自信を感じられなくなるかもしれません。 きっと、その人によってさまざまな感情が湧きおこる出来事だと思います。 マインドフルな気づきというのは、この場面を思い出している今、この時において、「身体が固くなっているな」「心臓がドキドキしている」「手足が冷たいなぁ」「足が浮いているような感じ」というようなことに気づくことです。 恥ずかしいとかイライラなどの感情が出てきたら、「こんな気持ちが出るんだな」と思いつつ、その感情は身体でどんなふうに反応しているのか…と注意を向けていきます。 マインドフルな気づきがPTSD症状への取り組みに効果があるのは、このような注意を向けている間は、その症状に圧倒されてしまうことがないからなのです。 ですので、PTSD症状へ取り組む時には、このようなマインドフルな気づきの状態を維持していくということがポイントになり、そういう意味で「マインドフルネスはPTSD症状に役立つ」と言えます。 一方で前回にも書いたように、マインドフルネス状態を目指すトレーニングや瞑想は、PTSD症状を持っている人が適切なサポートがない中で行った場合には、その症状が現れ、圧倒されてしまうこともあります。 それは、気づきを向ける方向や、気づきの維持について、細やかに見ていく必要があるためです。 また、マインドフルネス瞑想やトレーニングの中には、「マインドフルネス状態へ至ることが目的になっている」ようなものもあったり、 トレーニング自体はそうでもないのだけれど、トレーナーが無意識にそう指向していたりするものもあって、 そういう場にいると、「マインドフルネスになれている/なれていない」というような思いを感じてしまうことも起きます。 「マインドフルな気づき」はPTSD症状への取り組みに役立つだけでなく、生活や生き方にも良い影響を与えてくれる、すばらしい仏教の叡智なのですが(というよりは、もともとPTSD症状や集中力を高めるためのものではなく、仏教の実践そのものです)...

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ①

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「マインドフルネス」はかなり広く知られる言葉になりました。 「マインドフルネスが不安やストレスを軽減する」という研究結果や実践の積み重ねがあり、「PTSD症状へのマインドフルネスの効果」についての研究もあります。 一方で、「マインドフルネスを行うとPTSD症状が悪化する」ということも言われています。 真逆の説明は、混乱してしまうでしょう。 いったい、どっち??? 先に結論から述べましょう。 マインドフルな気づきはPTSDに効果的ですが(症状としては現れなくなります)、マインドフルネスはPTSDを悪化させる場合があります。 もともとは、マインドフルな気づきや注意の能力が高まっていくと、PTSD症状の軽減やコントロールをもたらす、というものでした。 そこから、PTSD症状を軽減するためにマインドフルネスのトレーニングを行う、という方法が行われました。トレーニングによってマインドフルな気づきや注意の能力を高めていくことで、PTSD症状が軽減するという考え方、つまり逆方向の考え方で「トレーニング」が生まれたわけです。 マインドフルネス瞑想のトレーニングは、日々の積み重ねを何年も行うことで、マインドフルな状態へ移りやすくなったり、その状態が長く続くようになります(ヨギーがそういう状態です)。 「マインドフルネス」 「マインドフルネス瞑想」 「マインドフルな状態」 似たようなカタカナ用語が現れてきました!余計に混乱してしまうかもしれませんが、ここが注意どころです。 このような、似たような用語の意味するところが錯綜していることが、「マインドフルネスとPTSD問題」を混乱させているのではないかと思います。 マインドフルネスは、「 今ここでの経験に評価や判断を加えることなく注意を向けること」。 マインドフルネス瞑想は、そのような注意の向け方へと誘導していくことであり、その練習や実践です。 そして、今この瞬間に注意を向けている状態を、マインドフルな状態=マインドフルな注意の向け方が行われている状態、になります。 PTSD症状へのアプローチで重要なのが、3つ目の、「マインドフルな注意を向ける」ことです。 長くなりましたので、次回に続きます。

いじめられ経験の私を救い出す

子ども時代にいじめられたことがある方は、決して少なくないと思います。 私も、継続的であったり、大ごとになるまでではありませんでしたが、少なからずいじめの経験があります。同級生からも、先生からも。 嫌な感覚がよみがえるような出来事もあれば、「なんやの、あれ!」と相手を一笑に付せるぐらいの出来事もあります(私のストレートな感覚ではこの大阪弁なのはご容赦ください~!)。 いじめは、その時に辛かったり孤独だったりしただけでなく、多くの人に、その後の人生にも影響を及ぼす、とても強烈なトラウマ体験です。 さまざまな感情がひきおこされるような記憶ですし、身体的にもその記憶は残っていることが見られます。 身体には、無自覚な緊張感があったり、ちょっと硬直したような感覚や姿勢が現れたり、地に足があまりついてないようなフワフワした感じがあったりするかもしれません。 感情や行動では、対人関係での不安、自分への自信のもてなさ、距離をとって人と接していたり、逆に過剰に笑顔やフレンドリーさを維持していたり、 何より強烈なのは、自分自身に対する恥の感情です。 「いじめられていた自分」「いじめられるような自分だった」というような、自分自身の存在価値に関わる感情はとても強烈で、そのために、当時も、家族や先生、信頼できそうな友人に打ち明けることが難しかった人は多いと思います。 このような恥の感情はあまりにも強烈なので、私たちは普段、記憶に蓋をしていたり、覚えている出来事を遠くから眺めるような感じで語ったりします。 こんなふうにある程度「距離」をとって痛みの記憶に触れないでいられていること、 それは自分を守るすばらしい力です。 一方で、今の自分の、人間関係の難しさやしんどさ、気分の落ち込みなどに影響があるのではないかと感じているならば、 記憶を遠くに閉じ込めてきた力を尊重しつつも、あの時に辛かった自分を救い出しに行く時が今ようやくやってきてくれたのかもしれません。 あの時の、出来事の大小は全く関係ありません。 出来事が些細なことだったとしても、自分の中で残る衝撃は大きいということは普通にありますし、おかしなことでもありませんし、何より、それは自分のせい、自分の弱さや不甲斐なさのせい、なんてことは 全く ありません(強調しておきます!) それはあくまで、神経系の反応であり、その反応の記憶なのです。 カウンセ...

味わう ~マインドフルネスはここにある

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細い道路沿いのコインパーキングに駐車しようとしたとき、車の前に小学1年生ぐらいの女の子が歩いていました。 その女の子がいたので、切り返しができずにいました。 大雨が降った直後。道路に水たまりができていました。 女の子の足が急に止まりました。 女の子は、一心に水たまりを見つめ、それから、そーっと足を踏み入れます。もう一方の足も、そーっと踏み入れました。 水面がかすかに揺れながら波紋が広がります。 この、たぶん時間にしたらほんの1,2分ぐらいの出来事。 女の子が体験していた世界が、それを見ていた私にも伝わってきました。 水たまりを見つめる集中した感覚。 ゆっくりと足を踏み入れ、靴が水に触れていく感覚。 それを受けて水が動きを作り出すところ。 靴が水に及ぼしているものが全身に広がっていく。 カウンセリングの中では、意図的に、このような体験の時間へと進んでいきます。 実際に周りにあるものを使ったり、イメージの中だけで進めることもありますが、 集中して、ゆっくりと、そしてとても繊細に丁寧に、自分の身体、自分の内側で起こっていることをみていきます。 たったそれだけのことなのですが、とても豊かな体験の世界がそこにはあります。 そこで体験されること、そして、体験することそのものが、多くのこと、必要なことをもたらしてくれます。 ですから、どんな体験も、どんなことも全て起こっていることには「意味」があるのです。 女の子が水たまりを味わったほんの1,2分ぐらいの時間ですが、この女の子にとって、これがこの時にとても重要なことだったように、 そしてそれを(たまたま)見ていた私にも「豊かさ」を一緒に味わえたように。 「味わう」。 女の子はぴょんと飛び出し、その後はもうすたすたと歩いて行きました。 きっと、女の子はこの経験は過ぎ去り忘れていくでしょう。 でも、このように経験したということ自体は、女の子の「生」に積み重なっていくものだと私は思います。 カウンセリングも、毎回毎回起きる「生」を積み重ねていくものです。

「それは身体の叡智です」➂ ~身体志向の心理療法の特徴とは?

ボディ・ワーク(オステオパシー)の体験から始めたテーマの3回目です。 身体に働きかける、身体を重要視するという点で共通するボディ・ワークと身体志向の心理療法。 さて、心理療法のもう一つの特徴とは? ボディ・ワークに限らず、気持ちの良いことや健康に良さそうなことを行ったり、服薬をしたりしたとき、効果や変化を感じる(あるいは感じない)、ということが起きます。 心理療法で注目するのは、このような「気づき」自体です。 効果や変化を感じる/感じないということに気づくというのは、そこに注意が向かう「私」がいます。 それはどんな効果(変化)なのか? 身体はどのようにその効果(変化)を私に知らせてくれているのだろうか? こういったことに、ゆっくり、しっかりと注目していき、自分なりの言葉で表していきます。 効果・変化に気づき、それに注意を向け、その感覚に留まってみると、感覚はより明確になったり、また新たな感覚が起きたりします。 そういう移り変わりもまた重要な体験。 体験し、気づき、それを味わい、その体験を言葉にしてみる。 言葉にしてみて、その言葉がしっくりときたら、それをまた体験していく。 これを繰り返していくと、不思議なことに、「全体性」のような感覚が生まれてきます。 そしてそこに、「私」の本質的な体験の感覚が存在します。 心理療法の特徴は、このように、注意を向けること、それを体験していくこと、言葉にすること、 この繰り返しによって、自己感の体験を深めていくところにあります。 人間は、大きな大脳皮質を持ったことで、物事を言語やイメージで思考したり、記憶するという点に、他の動物との大きな違いがあります。 身体志向の心理療法は、身体で起きる体験を深めていくと同時に、その体験を認識的にも深めていき、それらを統合するというのが特徴になります。

「それは身体の叡智です」② ~身体の記憶を体験する

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この動画は、捕食者(おそらく豹)に捉えられたインパラが、ラッキーにも助かった場面。 捕食者が去った後、インパラはしばらく死んだように固まっていますが、次第にお腹が膨らんだり凹んだりして、大きく呼吸している様子が見えます。そして座ったインパラは激しく震えだしました。身体全体が大きくブルブルと揺さぶられています。 その後急に立ち上がって走り去っていきました。 動物のこのような反応は生理学的に起きているもので、危機のまさにその時、そして危機が去った時の身体的な反応は、人間にも同じことが起きるとされています。 危険が起きたその最中は身体が硬直していたり、逆に馬鹿力が出ていたけれど、落ち着いてからガタガタ震えだす、というような身体の反応です。 人間が動物と異なるのは、言語やイメージを持ち、また複雑な社会性の中で生きているため、このような身体の一連の反応が起きずに途中で止まってしまったままになることがしばしばある点です。 これがトラウマ反応です。 先日、心理療法のトレーニングでデモ・セッションを受けました。 私が取り上げたのは、よくある小さなアクシデントでした。 「あんなこともあったな~」とちょっと自嘲的に思い出すぐらいの、普段は思い出すこともないような記憶。 しかし不思議なもので、身体はそのアクシデントの反応をしっかり記憶していました。 ※このように、身体は独自の反応的な記憶を持っているのですが、それが日常生活や自分自身に支障をきたすような場合に「トラウマ」とみなします。 アクシデントの場面を思い出すと、その時の緊張と焦りが甦って、身体が緊張しているのに気づきます。 デモ・セッションが進んでいく中で、緊張がほどけ、同時に、身体も心もホッとした感覚に包まれました。 そうすると、手先が小刻みに震えているのに気づきました。 「それは身体の叡智です」 この震えを講師はこんなふうに言いました。 身体に生じた強い緊張感や、思いもよらない震えに、私たち人間は動物とは違って、恐怖や不安を感じることがあります。 こんな緊張感を感じているって、怖いことが起きるのではないか? 震えているって、どうなってしまうのだろう? こんなふうな反応をしてしまって恥ずかしい… 脳が高度に発達した人間ならではの感情的な反応です。 身体の反応に驚いてしまうことが、人間らしさと言えるかもしれません。 前回のブログに書...