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怒り:いとうせいこう(作詩・リーディング)土取利行(三弦)

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前回のブログ「 他者の怒りに直面したとき① 」を書いたあと、ブログを読んだ方から、いとうせいこうさんのリーディングの動画を紹介していただきました。 これがとても素晴らしく、私が自分のためにブックマークしておきたいとも思いましたので、ブログに載せさせていただきます。 「君が美しいのは 怒りとつながっているとき」 「暴力と怒りを取りかえてはならない」 「君が美しいのは 怒りを誰かと共有するからだ」 怒り:いとうせいこう(作詞・リーディング)、土取利行(三弦)

他者の怒りに直面したとき①

これまで、自分自身の怒りの感情について書いてきましたが、今回は他者の怒りに直面したときについて書きます。 他者、といっても、いろいろな状況や関係性があります。 家族の怒り。 友人・知人の怒り。 職場の上司や指導者の怒り。 お客様の怒り。 通りすがりの人の怒り。 インターネット上の怒り。 これまでのブログで書きましたが、怒りの感情自体は、自然で理にかなっており、とても大切な感情です。 ですから、怒りが大切な感情である、ということをみんなのものにするためには、怒りの作法や共通ルールのようなものがあるといいのかも…。 この作法や共通ルールの前提として、怒りの感情と攻撃行為を分けることがあります。 怒りはOK。でも攻撃はNG。 他者の怒りを受けて耐え難くなるのは、攻撃を受けている状態だと思われます。 攻撃の形で怒りを表す人を相手にするのは、とても難しいことです。 なぜなら、攻撃のパワーに傷ついたり辛くなったりするだけでなく、攻撃する人はたいてい、攻撃を正当化することが多いからです。自分には怒る理由があるとか、怒るに相当することだからだと考え、その攻撃を正当化します。 そういう人を相手に、「怒りは聞きますが、攻撃は受けません」と言っても、すんなりとはいかないことのほうが多いでしょう。それどころか、攻撃がさらに大きくなる傾向があります。 「怒りの作法のようなものが必要なのではないか」と書いたのは、ここに理由があります。 つまり、怒ってもいい、でも攻撃はだめだ、ということがみんなの共通のものにならなければ、他者を攻撃する人の自己正当化は止まないからです。 さらに問題なのは、攻撃をする人は、攻撃ができる人、ということです。 攻撃ができる人というのは、力を持っている人。 社会的・経済的地位、男性性、年齢… 人に限りません。組織も国も、より大きい力を持っているから攻撃できるのです。 大きなレベルで平然と行われているのですから、問題は個人と個人の間だけではありません…。 とはいえ、前進もあります。 ハラスメントの言葉が浸透し、法制度ができたのは、攻撃は受け入れられないものだという社会的認識となりました(まだ途上ですが…)。 DV法や児童、高齢者、障がい者に対する虐待防止法、いじめ防止の法律も同様です。他者への攻撃はNOだという共通ルールです。 ヘイト・スピーチやインターネット上の誹謗中傷

怒りのコントロールとは、ちゃんと怒ること。

怒りの感情は、感じられなかったり、怒りを出せないということだけでなく、逆に強すぎるのもやっかいに思うものです。 強すぎる、というのは、2つの状態が考えられます。 1)自分の中に怒りが充満している、イライラが爆発しそうで、抑えるのが苦しい。 2)他の人にイライラや怒りをぶつけてしまう。そして周囲の人と問題になる。 自分の“過剰な”怒りをテーマにカウンセリングに来られている場合、その時点で、クライエントさんはもう十分自分に向き合い、頑張り、一生懸命やってきたのだとわかります。 なぜなら、カウンセリングに来て、こんなふうに自分をコントロールしようとしているのですから。 そのクライエントさんの努力にも、そしてクライエントさんの怒りも、何も悪いことがない!と思います。 なぜならその努力は、何とかしようとしてきた、その思いそのもの。 そして怒りは、クライエントさんを傷つけ、苦しめ、痛めつけていることがあるのだ、自分には自分の思いがあるんだ!という、内側からのメッセージだからです。 でもクライエントさんは、怒りのパワーを、誰よりも知っているのだと思います。 そのパワーが、自分を傷つけ、苦しめてきたように、他の人も傷つけ、苦しめてしまうことを知っている。 だから、コントロールしないといけないと思っているのではないでしょうか。 「怒り」は、コントロールされることは望まない感情だと思います。怒りに限らず、どんな感情もコントロールされることは望みません。 感情が求めるのは、ちゃんと感じるということ。 怒りは、内側から一生懸命伝えようとしているものがある。 怒りは、その主張をちゃんと聞いてほしい、見てほしい、対処してほしいと言っていると思います。 カウンセリングで行うのは、クライエントさんにとって強すぎる怒り(感情)を、クライエントさんにとって大丈夫な範囲を調整しながら感じる作業です。 これは、クライエントさんが想定していた「コントロール」=怒りを抑え、穏やかな状態を維持すること、とは違うものでしょう。 コントロールとは、怒りを調整することではなく、怒り方、怒りの出し方を調整することです。 感情の調整には、①感情のエネルギーに合わせるという側面と、②対人・社会的に合わせるという側面があります。 生活をしていく中で求められるのは②のほう。 小さいころから、②が強調、強要される社会です。特に日

怒りを感じられない背景にあるもの

とてもひどいことをされたのに、例えば、暴力や虐待を受けたけれど、その相手に怒りをあまり感じていないということがあります。 もしこれが、全く見知らぬ人からされたことだったら、ものすごく驚くでしょうし、ものすごく怖いでしょうし、ものすごく腹が立つだろうと思います。 なんでこの人はこんなことをするのか!? なんで私はこんなことをされるんだろうか!? と。 でも身近な人からの暴力は、この「普通」の反応を奪うことがあります。 周囲の人にとっては全く「トンデモナイ」ことなので、クライエントさんがされたことに怒りを感じ、「加害者」を非難したり攻撃したりすることがあります。 「そんなひどい人だなんて!」 「本当にサイテーな相手だったよ!」 「そんな人と離れてよかった!」 そんなふうに怒っているのを見て、クライエントさんがより辛い気持ちになってしまうことがあります。 そういう強い感情にふれるのが辛くなって、「味方」であるはずの人とも距離をとりたくなる。 これは、実は、とても自然な感情です。 自分をひどい目にあわせた人に対して怒りを感じられない、怒りをぶつけられたくないという感覚には、二つの背景があります。 一つは、暴力をふるっていても、それが自分にとって大切な人でもある(あった)ということ。 愛したパートナーだった。 頼る必要のある親だった。 いいところもいっぱいある。いい思い出もいっぱいあった。 自分にとって、大切な(はずの)存在なので、他者から否定されることは、とても辛いのは当然でしょう。 そしてこれにつながっているのですが、二つ目は、自分にとって大切な(はずの)存在を非難、否定することは、自分が生きてきた歴史を非難、否定してしまうように感じる。自分自身を否定するのは、とても辛く苦しいことですから、拒否感が出て当然です。 親密な人への嫌悪と自己嫌悪は、二重らせんのようにからみあっています。 クライエントさんの、このような怒りへの拒否感は、実は、ものすごく「まっとう」なことでもあると私は思います。 クライエントさんが辛いと思っているのは、人間性や人格、存在の否定。 でも否定、非難すべきは、そういうことではなく、暴力の行為そのもの。 クライエントさんが自分を守るために、あるいは自分の不安からくる怒りの感情に対する拒否感は、実は、こういうとても重要なポイントを敏感に、そしてとても正しく

カウンセラーのサポートで怒りを表してみる

以前のブログ で、トレーニングとして怒りのワークをしたときに、クライエント役をした私は、怒るのではなく、涙が出てきた体験について書きました。 怒りを感じた場面を取り上げてワークするというものだったのですが、私はカウンセラー役の人の眼差しが目に入ってきたとたん、ワッと涙があふれてきたのです。 私はその出来事では、とてもいや~な気持ちでした。でも、いわゆる「TPO」に添って、何も言わず、スルーしてその場をやり過ごしました。 だから相手に対して、ハッキリ言ってみるチャンスとして選んだ出来事だったのです。 でも私の涙が言っていたのは、私はあの時、誰かにそばにいてほしかったんだ、私はそのくらい、一人という不安があったのだという気持ちでした。だから相手にハッキリ言うことはできず、スルーしたんだ、とわかりました。 前回のブログ で、怒りを感じられないとか、怒りを表すことができない背景についていくつか書きました。 怒りを感じることも、怒りを相手に示すことも、自分にある程度のパワーを感じていないとできません。パワーというのは、相手より強いかどうかというものではなく、自分がしっかりと立っているというような、安定感や自信、確かさ、などのような感覚です。 前回のブログに書いたように、社会的にも個人的にも、立場が弱かったり低かったりするほうの人は、このパワーを削がれる体験をしてきています。 ですから、パワーを持っていない、感じられないことは、決して自分の個人的な問題ではありません。 ただ、支えてくれたり、認めてくれたり、つながってくれる「誰か」がそばにいなかった、そういうチャンスに恵まれなかった、そういうものがない社会なのだ、というだけです。 カウンセリングでは、カウンセラーがその「誰か」になります。 あの時は一人だった。でも今は一人じゃない。 一人じゃないという感覚、カウンセラーが一緒にいるんだという感覚をしっかり感じてもらいます。 カウンセリングの中では、実際に「怒る」という体験をしていただくことがあります。 具体的な場面で、どんなふうに言いたいか。どんな態度をとりたいか。 それを実際にやってみてもらいます。 こんなふうに、カウンセリングで実際に怒ってみることは、イメージであっても、かなりパワフルな体験になります。 身体で感じ、身体(声)で表し、やってみた感じをまた身体で感じてみる、とい

怒り、という大切な感情 ~“怒りを感じられない”

怒る、って簡単ですか? それとも、難しいですか? まず、「怒り」の感情は、とても自然なものだということを最初に言いたい。 この「自然さ」は、悲しいとか、うれしいとか、楽しいとか、寂しいとか、そういう、他の様々な感情と同じで、身体と心が反応し、生じるもので、それに良いも悪いもない。 それをまず最初に書いておきたいと思います。 そのうえで、怒りの感情は、自分自身に対しても、周囲の人に対しても、とても大きなパワーを及ぼす感情なので、「取扱い」はなかなかやっかいなところがあります。 私は、配偶者やパートナーから暴力を振るわれている人の相談に数多く対応してきました。 また、マイノリティの、差別や不当な扱いについての相談もこれまで数多く対応してきました。 そういう相談を受けてきたなか、「被害者」のほとんどは、「加害者」に対して、怒りを感じていないことが多いなと思います。 怒りを感じなくなっている背景には、こんなことがあります。 相手に怒りを見せたり、ぶつけたりすることで、より危険な目にあうので、護身として怒りを鎮めてきた 相手に怒りを示しても、状況は何も変わらないか悪化するので、我慢することのほうがマシな選択として積み重ねられてきた 自分の怒りを否定したり、馬鹿にしたりされるので、怒りを感じている自分のほうがおかしいのではないかという経験が積み重なってきた 「怒るほどのことではない」「怒るあなたがおかしい」「怒るなんて大人じゃない」といったメッセージをあまりにも受けすぎて、怒りを感じる自分を、自分で抑圧してきた 怒りを見せても、誰も取り合ってくれなかったり、何も変わらないという経験のために、自分は無力だということが常態化してきた 大切なはずの相手にたいするあまりにも強い怒りは、自分の状況や存在や歴史を否定するような感覚になるため、怒りを感じたくなかった どの人も、どれほど孤独に怒りに耐え、怒りを抑え、怒りを隠してきたかということが見えます。 だからまず、カウンセリングにアクセスしてくれたことを、本当によかった!と心から思います。 どんな感情も、一緒に感じてくれる、その気持ちを知ってくれている、受け止めてくれる「誰か」の存在がとても重要ですが、「怒り」はそのなかでも、最も「誰か」を必要とする感情なのではないか、という感じがします。 その怒りは正当なものだ、と その怒りは大切なもの

「すべての山に登れ」

紅葉の季節。 近くの山に行きました。 見上げれば色づいた紅葉と空。足元は落ち葉がカサカサと優しい音をたてていました。    時々、近くの山に行きますが、以前はちょっと本格的な登山をしていました。日本ではアルプスや北海道などの山々。海外へも登山旅行を何度かしました。 「山ガール」や「中高年の山歩き」もまだなかった頃。山は比較的静かな場所でした。 私は、連れとのおしゃべりを楽しんだり、景色や自然を満喫するよりもむしろ、ただただ、もくもくと歩くのが好きなほうです。せっかくの景色や自然、鳥の声に目を向けないのは、もったいないような気もするのですが、山に行くと、そういう気持ちや欲求よりも、どうも身体が自然とズンズン動いていくようです。 「呼吸は自分の歩み、歩き方に合わせるのが大事だ。(中略)呼吸をうまくやるのは、登っているときに常に自分の体に問い続けることだ。『どのペースが一番楽だと思う?』とね。するとリズムが少しずつわかってくる」 〔「藤原章生のぶらっとヒマラヤ」毎日新聞2021年6月29日(火)夕刊。ネパールのダウラギリ登山中、スペイン人登山家カルロス・ソリアさん(81歳)がダウラギリ(8,167 m)登山で語った言葉。〕 呼吸のリズム。身体の声。 自分を見つめていくとき、体験を深めていくとき、カウンセリングでもとても大切なことです。 山を歩く、ということについては、こんな歌があります。 ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」で、主人公のマリアが自分の方向性に戸惑っていたとき、修道院長が彼女に歌った歌です。  「すべての山に登れ」   すべての山を登りなさい 高きも低きをたずね あなたの知るすべての道 あらゆる小径をたどるのです すべての山を登りなさい あらゆる流れを渡り あなたの夢を見つけだすまで あらゆる虹を追え あなたが与えうる限りの愛 その必要としている夢 来る日も来る日も あなたが生きつづけるかぎり すべての山を登りなさい すべてのせせらぎ 流れを渡り あなたの夢を見つけだすまで すべての虹を追うのです (Sound of Music, "Climb every mountain") 生きていく中での迷い。方向性を見失って、立ちつくしてしまうような時。 暗闇の中で、トンネルの中で、身動きができないようなこと。 そういうなかでも、人は

「ポジティブ」を拡大する ~AEDP™セラピーの選択と実践④

自分を肯定するということについて、以前 ブログ に書きましたが、今回ももう一度同じテーマで、でも、少し違った視点から書こうと思います。 というのも、最近仕事で、私は自分で自分のことを認める視点を持っていなかった!と気づいたからなのです...。 それで、自省もこめて、このブログを書きます。 私はAEDP™セラピーという心理療法をベースにカウンセリングを行っています。アメリカのAEDP™研究所の認定セラピストを目指して、現在もトレーニングを続けています。 AEDP™セラピーは、クライエントさんの問題や病理に注目し、それを改善や治療するという考え方をとっていません。クライエントさんは、たいてい、辛い、悲しい、苦しい、混乱している、などの感情を抱いてカウンセリングに訪れます。そういうしんどい気持ちや状況をなくすにはどうすればよいか、というのが、従来の心理療法のスタンスです。 AEDP™セラピーのスタンスは、「癒されたい」「自分を高めたい」「人とつながりたい」といった、クライエントさんがもともともっている原動力に注目し、それを引き出していくものです。 こういう原動力は誰にもあるのですが、クライエントさんのそういう原動力は、隠れてしまっていたり、抑え込まれてきていたり、じっと時を待っていたりして、クライエントさん自身には感じられなくなってしまっています。 私はもともと、こういう視点を大切にするやりかたでカウンセリングを行ってきましたが、AEDP™セラピーのトレーニングを続ける中で、それをもっと早く、もっとはっきりとクライエントさんと共有していくプロセスができるようになってきたと思います。 だから、クライエントさんのこの原動力を見つけるのがとてもうれしいし、それに注目して、一緒にこの原動力を大きくしていくプロセスも、クライエントさんのすごさに胸がいっぱいになることがたびたびあります。 ところがところが。 私自身が、それをAEDP™セラピーのトレーニングの中で行っていなかった…ということに気づいたのです...(汗)。 心理カウンセリングのトレーニングでは、SV(スーパービジョン:自分が行ったセッションを指導者に見てもらい、アドバイスなどを受けるトレーニング)がとても重要です。SVを受け続けるのは、カウンセラーとして必須で、私も継続してAEDPのスーパーバイザー(指導者)にSVを受け

ホンモノ、の体験

あなたが、深く深く心を動かされたとき。 その感覚はどんなものでしたか? その感覚の確かさ。それは、あなたにとって、まさに真実な感じだったのではないでしょうか。 その感覚、体験について、思考を巡らせれば、何が良かったとか、どうしてそう思うのかとか、そういうことを言い表せるかもしれません。 でもその考える前の、言葉にする前の、その感じ。 その感覚は、あなたに、 あなた自身が体験しているのだ、 あなたが実際に知ったのだ、 あなただけの、誰のコメントも侵入することはない、あなたの感覚なのだ、と 告げているのではないでしょうか。 この、「ホンモノ」だと感じる体験。 メトロポリタン美術館で、ゴッホの絵を見ました。 初めて実物を見ました。 あの、油絵の具のもりあがるうねり。質感。 立ち止まって動けませんでした。 写真で見た絵は、興味を持つでも持たないでもない、私にとっては、何でもないものでした。 でも本物は違いました。 ゴッホの筆の力が、私に響き、その力で身動き取れないような衝撃がありました。 「待ち合わせの時間だから行かなきゃ」と頭の声で一生懸命自分に言い聞かせて、その場を去ったのを覚えています。 本物のもつパワー。 プライバシーがとても大切な心理カウンセリングでは、他の人の実際のセッションを知る機会は基本的にありません。 心理職は、研鑽の機会として、グループ・スーパービジョン(ケースについての指導を集団で行うもの)や事例検討会があります。これは、提出者(スーパーバイジーと言います)のケースをもとに勉強する機会ですが、一般的には、スーパーバイジーが作成した資料をもとに検討を進めます。 ですので、セッションのリアルな場面にふれるものではありません。 ところがAEDP™セラピーのトレーニングでは、講師が、自分が行った実際のセッションの動画を提示し、解説してくれます。 研究所の教員であるセラピストの、実際のセッション動画は、本当にすごい。 すばらしさは衝撃的で、ずっと余韻が残ります。 そういう、「ホンモノ」にふれて、感動、感嘆したあと、さて自分を振り返ると、自分の未熟さや至らなさ、問題点ばかりが目につき、がっくり落ち込みます…。 自分の限界を思い知らされるような気持ち。 でも本物を知ってしまった以上、もうそこからは目を背けられない。 「アマデウス」のアントニオ・サリエリって、こんな気

「真実の他者」~AEDP™セラピーの選択と実践③

  「自分と周りの人との距離感をイメージしてみる」 のタイトルのブログ記事で、自分を中心にして、身近な人や周囲の人が、自分からどのくらいの距離感にいるかマッピングしてみる、というワークをご紹介しました。 自分にとって、大切かどうか、安心かどうか、信頼やつながりを感じられるかどうか、といった心理的な距離感を紙に落とし込んでみることで、自分を中心に他者との距離感を感じてみるというワークです。 今回のテーマは、このマップの中での、自分に最も近いところにいる人について。 私は、自分の最も近いところに、ある「まなざし」がある、と感じています。 (この日本語、ちょっと変ですね💦すみません。) 私のカウンセリングのアプローチであるAEDP™のトレーニングでの経験をお話します。 トレーニングは、小グループに分かれて、体験ワークを行います。 私は短期集中型のコースに参加していたので、5日間毎日同じメンバーでワークをしました。 あるワークのテーマは、「怒り」でした。 心理士の研修では、ワークを安全に進めるために、感情的に最大を10としたら、1~3ぐらいのものをテーマに選びます。 私が選んだのは、だいぶん前に経験したことで、「今なら相手にハッキリと言い返したい!」と思うようなことだったので、それを選びました。私にとってはごく小さい出来事です。 そして、セラピスト役の人に、その話をしました。すごく腹立たしい出来事だったけれど、その時はハッキリ言わなかったから、ちゃんと怒りを出してみたいんです、と。 私は彼女を見て話していたのですが、ある瞬間に、私をじっと見る瞳が私の目に飛び込んできました。 とても一生懸命、とても真剣に、とても私のことを思って、私の経験と気持ちをしっかりと受け止めて聞いてくれている、それがわかる目でした。 その瞳が目に飛び込んできた瞬間、私の目から、突然、わっと涙があふれたのです。 怒るのではなく。 ただ泣いていました。 そしてわかりました。 私はもちろん怒りをもっていたけれど、それだけでなく、それ以上に、その当時の私は、一人で立ち向かわなければならなかったことに、不安と孤独を感じていたのでした。 彼女は、その私と一緒にいてくれた。 彼女の眼差しが、それを伝えてくれていたのです。 この眼差しは、「真実の他者(True Other)」という体験でした。 彼女のまなざしが、私