怒りを感じられない背景にあるもの

とてもひどいことをされたのに、例えば、暴力や虐待を受けたけれど、その相手に怒りをあまり感じていないということがあります。

もしこれが、全く見知らぬ人からされたことだったら、ものすごく驚くでしょうし、ものすごく怖いでしょうし、ものすごく腹が立つだろうと思います。

なんでこの人はこんなことをするのか!?

なんで私はこんなことをされるんだろうか!?

と。

でも身近な人からの暴力は、この「普通」の反応を奪うことがあります。


周囲の人にとっては全く「トンデモナイ」ことなので、クライエントさんがされたことに怒りを感じ、「加害者」を非難したり攻撃したりすることがあります。

「そんなひどい人だなんて!」

「本当にサイテーな相手だったよ!」

「そんな人と離れてよかった!」

そんなふうに怒っているのを見て、クライエントさんがより辛い気持ちになってしまうことがあります。

そういう強い感情にふれるのが辛くなって、「味方」であるはずの人とも距離をとりたくなる。

これは、実は、とても自然な感情です。

自分をひどい目にあわせた人に対して怒りを感じられない、怒りをぶつけられたくないという感覚には、二つの背景があります。


一つは、暴力をふるっていても、それが自分にとって大切な人でもある(あった)ということ。

愛したパートナーだった。

頼る必要のある親だった。

いいところもいっぱいある。いい思い出もいっぱいあった。

自分にとって、大切な(はずの)存在なので、他者から否定されることは、とても辛いのは当然でしょう。


そしてこれにつながっているのですが、二つ目は、自分にとって大切な(はずの)存在を非難、否定することは、自分が生きてきた歴史を非難、否定してしまうように感じる。自分自身を否定するのは、とても辛く苦しいことですから、拒否感が出て当然です。

親密な人への嫌悪と自己嫌悪は、二重らせんのようにからみあっています。



クライエントさんの、このような怒りへの拒否感は、実は、ものすごく「まっとう」なことでもあると私は思います。

クライエントさんが辛いと思っているのは、人間性や人格、存在の否定。

でも否定、非難すべきは、そういうことではなく、暴力の行為そのもの。

クライエントさんが自分を守るために、あるいは自分の不安からくる怒りの感情に対する拒否感は、実は、こういうとても重要なポイントを敏感に、そしてとても正しく感じ取っているように思います。


とはいえ、「加害者」の人格や存在と加害行為は、そんなに簡単に区別できるものでもなく、クライエントさんにとって脅威として現れるときは、一体となって襲ってきます。

怒りを感じられないもう一つの理由は、この脅威の大きさのためなのですが、当時、クライエントさんが圧倒されてしまう関係や状況であったことが背景にあります。

以前のブログに書いたようなことです。


恐怖に圧倒されていたり、孤独で力を失っている場合であれば、今、このカウンセリングではセラピストがいる(今は他にも助けてくれる人がいるならその人の存在も感じてみる)。そうして、一人じゃないということを身体でしっかり感じていきます。


加害の相手と自分への混然となった思いがあるならば、それを解きほぐしていく。

クライエントさんの、相手への愛着感情も、相手への怒りも、どちらも大切なものですから。