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「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?②

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進撃の巨人のジーク、ミカサ、始祖ユミルは、それぞれに非常に強い思慕を抱く人がいて、その思いは絶対的な信念にまでなっています。 獣の巨人でもあるジークは、親の期待に応えられなかったことで、親から否定され、受け入れてもらえませんでした。 そんな中で出会ったクサヴァーは、ジークをただ受け止め、気にかけます。クサヴァーとの出会いはジークを変え、ジークはクサヴァーの考え―民族根絶計画―を実行しようとします。 ミカサは、子どもの頃、家に押し入った強盗に両親を殺戮され、自分も殺されそうになった時に、エレンに命がけで助けてもらいます。 親を失ったミカサはエレンの家で育ち、エレンを守り抜こうと生きていきます。 始祖ユミルは、少女のころ、フリッツ王の怒りを恐れた村人からスケープゴートにさせられ、追放されます。ケガを負った少女ユミルは、孤立と孤独の中で森をさまよい、木の穴へ落ち、謎の生命体と接触し、巨人の力をもつ始祖ユミルへと変貌します。 フリッツ王の奴隷として生きる始祖ユミルは、自分を追放し、虐待し、親や故郷を破壊したフリッツ王のために、巨人の力を使って戦争を繰り返します。そしてフリッツ王の子を産み、フリッツ王を守ろうとして命も落とすのです。 死後は、フリッツ王の命令で自分の子どもに自らの遺体を食わせ、肉体の命は終えてもなお、フリッツ王のために巨人の力が継承されていきます。 こんな理不尽な関係でありながら、始祖ユミルはフリッツ王を「愛していた」とされます。 前回のブログで引用したウェブ記事では、この理解しがたいほどの強烈な思慕を心理学の「転移」という概念を用いて解説していました。 彼/彼女らの「転移」はなぜ起きたのでしょうか? 進撃の巨人は、登場人物全員が生命の危機に遭っていますが、ジーク、ミカサ、始祖ユミルのような激しい「転移」が起きている人と、そうでない人がいます。 そこでトラウマという視点を取り入れてみたいと思います。 トラウマ、正確にはPTSD(心的外傷後ストレス障害)。精神医学の診断で用いられるDSM-5-TRでは、PTSDと診断されるトラウマエピソードは、実際にまたは危うく、死ぬ、重傷を負う、性的暴力を受ける出来事で、それを直接体験するだけでなく、他人に起こった出来事を直に目撃することも含まれます。 また、国際疾病分類(ICD)11版では、新たに「複雑性心的外傷後ストレス障...

「進撃の巨人」あの愛はトラウマ反応なのか?①

「 進撃の巨人 」。 子どもがお世話になっている先生の大推薦で何とはなしにアニメ版を見始め… 3回見てしまいました…。 深い。 奥深い世界観と複雑なストーリー構成。個性的な登場人物。 (3回見たのは、ストーリーの伏線が難しくてわからなくなってしまいリピートしたというのもあります。) 世界中で大人気だというのは頷ける超大作です。 「進撃の巨人」はたくさんの批評があるようですが、先日見つけたこちらの評は、臨床心理学の視点が取り入れられていて、たいへん興味深いものでした。 『進撃の巨人』ミカサが始祖ユミルに選ばれた理由 “反逆”としての他者とのつながり(文=角野桃花) 評のテーマは、「傷ついたものはどうして特定のひとりから与えられる愛情を求めずにはいられないのか」。 ここで取り上げられているのが、ジーク、ミカサ、始祖ユミル。 この3人にはそれぞれ、はたからみると理解しがたいほどの強い思慕を抱く人が存在します。 この記事では、「自分の生が脅かされる感覚、そこに突如として差し込む一筋の光、そしてそこへ向かう信奉と恋慕」が共通していて、それを、心理学の「転移」という概念を用いて解説していました。 彼/彼女らが「愛」「親愛」だと認識していたその思いは、「転移」によるものだったのではないか? そしてそこからの解放のストーリーなのではないか、 というのが、この評の主張でした。 「転移」は、心理学では非常に重要な概念(理論)で、精神分析という治療を行っている中で、患者が分析者(セラピスト)の中に、自分の幼児期に重要な役割を果たした人物(親など)を再現しようとする心的な動きのことを言います。 確かに、恋愛や思慕の情といった深い関係性には「転移」が起きることがあります(逆に言うと「転移」によって恋愛や思慕の情が生まれるということにもなります)。 あたたかく幸せに満たされる”愛”の感情だけでなく、痛みがあったり、強い執着や不安感があったりなどの複雑な感情を説明する概念です。 ここで、トラウマという視点から見てみると、「進撃の巨人」の登場人物たちの情愛は、また違ったものとして浮かび上がってきます。 PTSDは、それが1回のエピソードか複数回のエピソードかに関わらず、トラウマエピソードに対する神経生理学的な反応パターンが現在も残っている状態です。 彼/彼女らに起きた出来事・経緯を追うと、彼/彼女...

クライエントさんの権利 ~カウンセリングで問題が起きた時に

この記事では、カウンセラーが倫理的な問題を起こした場合に、クライエントさんが対処できる方法を記載します。 心理療法はクライエントさんの秘密を守るため、逆に問題が起きても表面化が難しいという構造があります。 クライエントさんのプライバシーを守ることは、クライエントさんの安全を確保する上で最も重要なことですが、そのために、セラピーの場で起きたことも秘密にされてしまう危険性がクライエントさんの側にはあります。 また、カウンセラーとクライエントという関係においては、クライエントさんは「弱い」立場にいます。 カウンセラーが倫理違反行為を行っていても、それが治療の一環ではないかと思ったり、カウンセラーの心証を悪くしたくないという遠慮が働いてしまいます。 また、被害を受けてきたクライエントさんにとっては、そのような経験の影響で、我慢すべきことだと考えてしまうこともあります。 カウンセラーの行動が倫理違反行為なのかどうかを判断するのが難しいと感じる場合もあるかもしれません。 ブログでわかりやすく説明すべきかと思いましたが、倫理は幅広く深いテーマなので、簡潔にまとめることができませんでした。 私の資格に基づく倫理のガイドラインがありますので、そちらを提示します。 日本臨床心理士資格認定協会「 臨床心理士倫理綱領 」:臨床心理士の資格に携わる団体の倫理規定です 一般社団法人日本臨床心理士会 倫理綱領  :臨床心理士の職能団体が規定する倫理要綱です。 一般社団法人日本臨床心理士会「 倫理ガイドライン 」:上記の綱領に関するガイドラインです。 公認心理師法 :第40条~44条が倫理規定になります。 また、下記でも相談ができます。 消費者相談 :リンクは全国の消費生活センターを検索するウェブサイトです。 法テラス :各都道府県の弁護士会で法律相談があります 倫理違反は心理職の問題であり、それを訴えることができるのはクライエントさんの権利です。 ご自身の大切な時間と料金のために、被害の訴えはご自身の権利として尊重ください。

カウンセラーとの相性についての再考

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以前、「 カウンセリングが合わないとき 」というタイトルで記事を書きました。 同じ趣旨ですが、ちょっと違う書き方で取り上げたいと思います。 というのも、「カウンセラーとの相性」問題はとても重要だからです。 「 うつを生きる 」は、アベノミクスのブレーンでもあった経済学者の浜田宏一氏と小児精神科医の内田舞氏の対談本です。浜田氏は長らく躁うつ病を患ってきました。 こちらの本で、内田氏がこんなふうに話していました。 「心理療法は大きなカテゴリーとして認知行動療法と、力動学的心理療法に分けられます。それぞれに患者さんごとの向き不向きや、セラピストと患者さんの相性の良し悪しの影響はあるものの、どちらも効果はあります。」 これは一般的な見解ですし、精神科医らしい見解でもあると思いながらこの一言を読みました。 内田氏はアメリカで精神科医療を行っているそうですが、アメリカでも心理療法は、認知行動療法と力動学的心理療法に大別できないほど多種多様な心理療法があり、私が行っているような身体志向や体験的な心理療法も盛んにおこなわれています。 さらにそのような傾向もあって、認知行動療法と力動学的心理療法というような分類ではなく、統合的な心理療法へと発展していっているのが現在のトレンドのようです。 そのような中、「相性」は、心理療法として重要な要素として扱われるようになっています。 というのも、体験的な心理療法は、相性を合わせていくプロセスそのものが心理療法としての効果と大きくリンクしているからです。 これは「波長合わせ」といいます。 クライエントさんの体験が深まっていくプロセスでは、必ず、セラピストとの波長が合っています。逆に言うと、波長が合っていないときは体験が深まりません。 ですので、「波長合わせ」が、カウンセリングを開始した初期段階や、毎回のセッションでの初めの時間帯において必須になるのです。 それでも「相性」があるとしたら、最初から波長合わせがすんなり上手くいくクライエントーセラピストの関係性がたまたまあったということであったり、よりスムーズに波長合わせが起きやすいクライエントーセラピストの関係だったり。 そういう点では「相性」と言えます。 それでも「波長合わせ」は、数回のセッションを経て合ってきたり、しっかりがっつり合っていなくても、合っている瞬間が訪れたりして、次第に波長が合って...

カウンセリングでの「怒り」の扱い方

前回 の続きです。 「怒り」という言葉で感じられない場合であっても、身体にはしっかりと何かが生じています。 例えば、ほんの一瞬、わずかに、 筋肉が緊張したり、 胃がギュッとする感じが起きたり、 眉間に力が入ったり、 呼吸が一瞬止まったり、 というような身体の「反応」が起きていたり、 胸に「モヤ~」とか「ザワ~」という感じがあったり、 自分がその場から浮いていたり離れているような感じがあったり、 胃が重たい感じがしたり、 というようなイメージ的な感覚があったりします。 これらは一瞬で、微細で、ごくわずかな感覚であることもあり、 それを意識してとらえるのは難しい場合は多くあります。 カウンセリングでは、こういうわずかな感覚こそ注目していきます。 「身体―主体―私」の全体にとって大切なのは、身体、知覚すること、それが私であるということが、一連のものとして体験されていくことです。 そうすると、「私」は、このような身体の状態を「怒り」という言葉で表現するかもしれませんし、違う言葉で表現するかもしれませんし、言葉ではなくイメージを展開したり、身体の動きを伴っていったりするかもしれません。 「怒り」を身体の反応として見ていくと、「怒り」にまつわる不安や恐怖、恥、嫌悪感などを強く感じずに扱うことができます。 カウンセリングではこんなふうに「怒り」を扱うわけです。 ですが、それでも不安や恐れはつきもの。 次回はそれについて書きます。

「怒り」を感じるために必要な「主体」についてのお話

今回も「怒り」について書いてみようと思って過去のブログを振り返ってみたら(「怒り」のタグ)、これまで11回書いていました。 でもまだ書こうと思ったのは、「怒り」はやはり重要な感情であり、また同時に難しい感情でもあるからです。 先日同業の方が、長く続けているクライエントさんに主体が現れてきたら、セラピストへ(その同業の方へ)怒りが向けられてきたということを話していました。 これはとても興味深いことだと思いました。 怒りの感情が現れるには、怒りを「怒り」として認識する「主体」が必要なのです。 人の発達段階で怒りの感情が生まれるのは生後4か月~12か月ごろではないかという研究があります。(しかしあまり明確にはわかっていないようです。) 赤ちゃんの時からすでにある感覚や感情としての怒り。 しかしそれを知覚し、認識し、言葉にし、表したり伝えたりするには、まだ長い発達段階を経なければなりません。 そのプロセスにおいては、他者(特に養育者)との関りが重要になりますし、周りの人々が怒りに対してどのような価値を持っているか、つまり怒りに対する文化的価値に大きな影響を受けます。 一方、近年注目を集めている感情の構成主義理論という研究によると、感情は生得的にあるものではなく、環境との相互作用によって、経験的につくられ、学習されていくものであるとされます。 自分の身体で起きている様々な生理的、神経的反応と、それに関連する他者の表情や言動などとの結びつきによって、自分の身体的反応は「怒り」という言葉で表されるものだと学習していく、という理論です。 「私」が「私である」と感じること、そのような「私」を自己といいますが、その最も基盤となるのが身体です。 私は私の身体を持っている、これは私の身体で起きていることであると、無意識レベルから意識レベルまで知覚していることによって、「私」は「私である」と経験していきます。 そして、知覚し、行為している身体を「主体」といいます。 主体(=身体)が知覚し、行為し、そうして「私」という認識がつくられていくのです。 👆は膨大な理論をギューッとまとめてしまっているので、大雑把すぎる上にわかりにくいかもしれません。すみません…。 怒りについて取り上げると、その時に身体で起きた生理的な、神経的な反応状態があります。 そこにはすでにそれを知覚する「主体」(からだ)はあ...

切実な問いから始まる ~ハン・ガンさんのノーベル賞受賞スピーチから

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今年のノーベル文学賞を受賞された ハン・ガンさんの記念講演 は、彼女の作品を読んだ時と同じ、言葉の一言一言が全身に染みわたっていくような感覚でした。 心理セラピーは、物語と同じ「質」があると言われます。 ハン・ガンさんは、作品を創っていくとき、「問い」を立て、そこから物語が始まっていくそうですが、心理セラピーもまた「問い」によって始まります。 どうすれば私は苦しみから楽になれるのだろうか? この生きづらさを何とかするにはどうすればよいのだろうか? このような思いの中で、心理セラピーという方法へ手を伸ばしてくれた方が、クライエントさんとして訪れてきてくれるのです。 「引き換えにしてもかまわないと覚悟するほど重要な、切実な問いの中へ入っていき、そこにとどまるということ」 心理セラピーは、その問いが導いていく方へ共に進んでいく場であり、時間。 私が取っているアプロ―チの場合は、その道しるべやコンパスは身体。クライエントさんの身体が求めていることを、身体が示している方向を、クライエントさんと共に歩んでいく時間です。 「長篇小説を一つ書くたび、私は問いに耐えつつその中で生きる。問いかけの終わりに到達したとき──答えを見つけたときではなく──小説は完成することになる。その小説を書きはじめた時点と同じ人間ではいられず、書く過程で変形した私は、その状態から再出発する。次の問いかけが鎖のように、またはドミノ倒しのように積み重なって続き、新しい小説をスタートさせる。」 心理セラピーもまた、「終わり」は「始まり」。 始めたときの「問い」の終わりは、その答えがもたらされたという様相ではありません。 「問い」によって導かれていくなかで、「問い」を持っていた時の「私(クライエントさん)」は変容し、「問い」が「問い」ではなくなるような、「問い」もまた変容するような、そういう地点に辿り着きます。 そこは変容した「私」の、新しい出発のとき。 今回が今年最後のブログとなりました。 ここへ訪れて、読んでくださってありがとうございました。 来年もこんなペースで記事を書いていきたいと思います。 みなさまに良い年が訪れますように…。

ケアと「境界線」② ケアの関係の中で安全な境界体験をするには

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ケアは、自分と世界(誰か/何か)をつなぐ中で行われているもの。 その関係性は、いつも安全であるわけでも、双方向的というわけでもありません。 むしろ、ケアする側とされる側は固定していることが多いですし、 ケアする側は相手に入り込みすぎてしまったり、ケアされる側も、相手から入り込まれすぎたり、 ということが容易く起きてしまう関係でもあります。 自分への侵入を、特に幼少期から受けてきた人にとって、ケアを受け取ることは危険なことになりますし、 誰か/何かをケアすることにおいては、その対象との距離感がつかめず、遠すぎたり近すぎたりして、 それでまたしんどく辛くなってしまう、 ということがあります。 すると、誰か/何かとつながることへの、切なる望みと同時に、侵入体験からくる不安と恐怖も同時におきるという、正反対の感情や感覚が、自分を混乱させ、苦しませます。 そんななかで、どうやって安全なケアの関係を体験していくことができるか、「庭仕事の真髄」にヒントがあります。 著者はイギリスの精神科医で、園芸療法士。 この本は、園芸が、どれほど人の回復と癒しに効果があるのかを、たくさんの例を挙げながら述べています。 なぜそのような効果があるのか? それは、植物は決して人を拒否しないということ、 やりすぎややらなさすぎの間違いを行っても、植物は痛みも不満も訴えないこと、 剪定や間引きなどの破壊的行為をしても、それが植物の成長を促すことであったり、驚異的な回復力を見せたりもすること、 ということを述べています。 「植物の世話は、恐怖を感じることのない関係の中で、自分自身を解放できるようになるとヒルダ (注:NYの刑務所の園芸療法士) は確信しているのだ。草木は人間に対して即座に反応したり返事をしたりすることがない。また、ひるんだり微笑んだり、あるいは痛みを感じたりしても、言うまでもなく人間にはわからない。それが植物の有益な効果の重要な部分だ。幼いころに十分に大事にされなかった場合、それどころか実際に経験したものが虐待や暴力だった場合、後の人生の中で何かを大事にする仕方を学ぶのは、困難に満ちたものとなる。心の中にひな形がないというだけでなく、他者の中のもろさが自分の中の最悪のものを引き出す可能性がある。これが、虐待が無意識のうちに繰り返される理由だ。すなわち、動物や人間の弱さは、自身もかつて犠牲者...

ケアと「境界線」① 奪われた「私」という存在

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ケアは、一人では生きていることができない、生きていることが難しい状態、困難をどうにもできないでいる人や動物などに対して、そのそばにいる人が、自分の身体と時間と心を差し出すこと。 小さなケアから、日々の大きなケアまで、ケアは人と人をつなぎ、ともに生きていくうえでとても大切な営みです。 でも、ケアが「私」という存在を奪うことも起きます。 イスラエルの社会学者であるオルナ・ドーナト著作の「母親になって後悔してる」は、世界中で翻訳され、大きな反響がありました。日本でも多くのメディアでとりあげられています。 子どもを持ったことは後悔していない、子どもは愛している、でも母親になったことは後悔してる。 この思いは、「母親とは献身的で、愛情深いもの」という社会神話の影にある、母親という役割の過重な負担からきていることを、この本は記しています。 「母親」という役割=仕事は、ケアそのもの。 前回のブログ でも書きましたが、ケアは、他者の存在と深く関わるコミュニケーション。 「母親」を課せられたとたん、ケアは毎日延々と続きます。 赤ちゃんの頃は、母乳やミルクをあげ、おむつを替え、寝かせて、というような、身体への関りが主ですが、次第にこころの交流でもケアが大きくなっていきます。 このように、他者(子ども)の様子によって自分が動かなければならない状態が続くと、「私」でいる時間は必然的に少なくなっていってしまう。 薄れてしまった「私」は、いつのまにかケア対象の人に同化してくことが見られます。 そうして、「私」でいられないことへのストレスやフラストレーションを感じたり、自分自身が「自分」という存在を忘れてしまうような状態にまでなることもあったりします。 他者へのケアが続きすぎて自分が失われてしまうような状態にまでなるのは、「母親」に限りません。 「アダルトチルドレン」は、依存症の親を持つ子どもが、親の保護者のようになっていることを指す言葉ですが、これも、親へのさまざまな「ケア」の結果です。 親が依存症でなくても、親が困難を抱えていたり、精神的に不安定だったりしていた場合に、親への過重なケアの関係は生まれます。 こうして、過度なケア、一方的なケアは、「私」という境界を侵食していってしまうのです。 散歩で見つけたハートの石。 でも、どれほど浸食されていったとしても「私」は決してなくなることも消えるこ...

「ケア」と「私」

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 「ケア」というカタカナ用語、元は英語のcareですが、日本語でしっくりくるのは「お世話」でしょうか。 でも、「お世話」ほど関与が大きくないものも「ケア」には含まれているように思います。 ブログがすっかりご無沙汰になっていたのは(前回からなんと1か月以上空いてしまいました💦)、私が「ケア」で忙殺されていたからでした。 これまでの人生で最も忙しい時間だったかもしれません…。 この間は、考えること、時間をとること、ゆっくりすること、そういったことが全くできませんでした。 ケアは、自分自身に対しても使う言葉ですが(セルフ・ケア)、そこには2人あるいは2つ以上の対象が存在します。 私と、もう一人の誰か。 私と、私 私と、ペット 私と、植物 それから、ケアは、相手の様子や状態と呼応しながら行うものなので、頭で考えて行うよりも、身体が反応したり、動いたりしていきます。 例えば、赤ちゃんが泣いたらパッと気づき、駆け寄って様子を見に行ったりしますが、そうする前に、すでに赤ちゃんの様子を気にしている状態が起きています。すぐに駈け寄れるのは、身体がそういう「ケアモード」になっているからです。 「ケアモード」の私=身体の状態と、そうでない私=身体の状態の両方が、ある程度のバランスをもって行ったり来たりしているのがよいのではないかと、私は思います。 ケアモードは、もう1人やもう一つの存在との関係・つながりを感じられる時間。 「私」にとらわれすぎずにいられる時間。 今、ここを感じる時間。 さまざまな感情を感じる時間。 ケアを外れた「私」の状態は、 自分のペースを感じる時間。 物事を深く考えたり、イマジネーションを広げる時間。 過去を思い、未来へとつながる時間。 でも一方、ケアモードは、 自分を見失う時間。 今、ここに縛られ、いろいろなことが無計画になっていくような感覚。 強すぎる感情が辛くなる時間。 そして、ただ「私」でいる状態は、 他者とのつながりが感じられず、孤立を感じる時間。 思考が出口なくグルグルとめぐる時間。 過去に後悔し、未来を不安に思う時間。 どちらかに偏っているな…と感じた時に、反対のほうの時間をとってみるとよいかもしれません。