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「それは身体の叡智です」② ~身体の記憶を体験する

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この動画は、捕食者(おそらく豹)に捉えられたインパラが、ラッキーにも助かった場面。 捕食者が去った後、インパラはしばらく死んだように固まっていますが、次第にお腹が膨らんだり凹んだりして、大きく呼吸している様子が見えます。そして座ったインパラは激しく震えだしました。身体全体が大きくブルブルと揺さぶられています。 その後急に立ち上がって走り去っていきました。 動物のこのような反応は生理学的に起きているもので、危機のまさにその時、そして危機が去った時の身体的な反応は、人間にも同じことが起きるとされています。 危険が起きたその最中は身体が硬直していたり、逆に馬鹿力が出ていたけれど、落ち着いてからガタガタ震えだす、というような身体の反応です。 人間が動物と異なるのは、言語やイメージを持ち、また複雑な社会性の中で生きているため、このような身体の一連の反応が起きずに途中で止まってしまったままになることがしばしばある点です。 これがトラウマ反応です。 先日、心理療法のトレーニングでデモ・セッションを受けました。 私が取り上げたのは、よくある小さなアクシデントでした。 「あんなこともあったな~」とちょっと自嘲的に思い出すぐらいの、普段は思い出すこともないような記憶。 しかし不思議なもので、身体はそのアクシデントの反応をしっかり記憶していました。 ※このように、身体は独自の反応的な記憶を持っているのですが、それが日常生活や自分自身に支障をきたすような場合に「トラウマ」とみなします。 アクシデントの場面を思い出すと、その時の緊張と焦りが甦って、身体が緊張しているのに気づきます。 デモ・セッションが進んでいく中で、緊張がほどけ、同時に、身体も心もホッとした感覚に包まれました。 そうすると、手先が小刻みに震えているのに気づきました。 「それは身体の叡智です」 この震えを講師はこんなふうに言いました。 身体に生じた強い緊張感や、思いもよらない震えに、私たち人間は動物とは違って、恐怖や不安を感じることがあります。 こんな緊張感を感じているって、怖いことが起きるのではないか? 震えているって、どうなってしまうのだろう? こんなふうな反応をしてしまって恥ずかしい… 脳が高度に発達した人間ならではの感情的な反応です。 身体の反応に驚いてしまうことが、人間らしさと言えるかもしれません。 前回のブログに書...

「それは身体の叡智です」① ~オステオパシーの体験から

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先日、知り合いのオステオパシー治療家の施術を受けました。 atelier flowの山中暁子さん です。 山中さんが身体について語るお話が私は大好きで、一度受けてみたいと思っていたセラピーでした。 心理療法を行う私が言うのはなんですが💦、言葉や語りを用いる心理療法よりも、身体へアプローチする治療法のほうがずっとパワフルで効果が大きいと私は思ってきました。 そう思うようになったのは、大学院のときに受けたさまざまな身体志向の心理療法の経験からなのですが、 身体に記憶されているもの、 身体自身が求めていること、 こういう体験をすると、その叡智に驚き、興味を持ち、深い安心を感じたのです。 「私」が頑張らなくても、身体は何とかしようとしてきたし、何とかしようとしてくれているのだ…と。 身体へのアプローチは、身体の痛みや不具合だけでなく、心の不調や苦しみも変化をもたらします。 このようなボディ・セラピーも多種多様にあるのですが、山中さんが行っているのはバイオダイナミクス・オステオパシーというものです。 山中さんは、同じ空間にいるところから、そしてクライエントさんに触れる前から施術は始まっているということを話してくれたことがありました。 2人がいるその空間で、身体はどんなふうか? そして触れるのは硬貨1枚の重さほどの、そっと添えるような手。 それが、身体が必要なことが起きるプロセスなのだということを、優しく穏やかな声で話されます。 私自身の体験を少し書きますね。 私が横になった布団の周りで、山中さんがそっと声をかけてきました。 山中さんがそこにいて、私はどんなふうに感じるか? 最初に立っていた場所、立っていること自体に、私(の身体)は微妙な違和感を感じていました。 それを伝えると、山中さんはそっと動いて、私の身体がOKに感じる場所を確かめます。 これは心理療法でも行う場合があります。特に面談での初回。 椅子は置かれていますが、私が座る位置、クライエントさんが座る位置や方向など、どこが「しっくり」くるか、まず確かめてもらう時間を取る場合があります。 このような時間を過ごすことには、いろいろな意味があります。 私の体験に戻りましょう。 私の身体がOKだと感じた場所で、山中さんが、そーーっと手を首元と腰に当てました。 その手のあたたかさと心地よさ。 頭部と胸部に広がる”雑念”のワサワ...

誰の中にもある「心の平和」とは

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心の平和でイメージするのは、どんなことでしょうか。 恐怖や不安がない感じ。 穏やかでほっとする感じ。 静かでゆったりとした流れの世界。 森絵都さんの「つきのふね」には、「心の平和」という言葉が出てきます。 主人公は中学2年生の女子・さくらと梨利の2人と男子・勝田くん。 女子2人はとても仲が良かったのに、ちょっとした出来事をきっかけに断絶していました。 そういう中で、勝田くんがさくらに言います。 「オレは、ひとりになるのがこわいんだよ」 「ときどき発作みたいにどっとさびしくなる。ぞっとするほど、さけびたくなるほど、気が狂いそうなほどさびしくなる。」 「でもさ、オレがそうしてキレそうになったとき、頭にこう、ふっと思い描くとなんとなくほっとする光景ってのがあるんだよ」 それが、今は話すこともできなくなってしまったさくらと梨利が楽しそうに話している場面なのだと。 「そういう姿を思い出してると、それだけでけっこう心がなごむっていうかさ。やばいムードから抜け出して、またすっといつもの自分にもどれそうな気がするんだよな」 勝田くんは、これを「心の平和」と言いました。 「心の平和」を持つ。 これは私たちにとって、とても重要なことです。 そんなものはない、私の心の中はいつも嵐が吹き荒れ、緊張感にあふれ、怒りや悲しみでいっぱいで、真っ暗な孤独しかない、と思う方もいるかもしれません。 でも実は「心の平和」は誰にもあるのです。 こちらの本には、このことについて丁寧に詳しく書いてありますのでぜひお読みください。 「心の平和」は、心理学的には「リソース(資源)」と言います。 リソースは、生きている人間には必ず存在します。 これは「心が平和」ということではありません。 「心が平和」ではなくても、心の中に(身体の中に)「平和」な部分はいつでもだれにでもあるので、それに気づき、意識を向け、その存在を確認します。 これはリソースそのものであり、またこのような意識の向け方がリソースをよりリソースにしていくことになります。 リソースは、心地よいものや幸せな気持ちになるもの、満たされるもの、ホッとするものでなくてもリソースです。 なんでもないもの、どうってことないこと、 これもリソースになります。 またリソースは、いつも同じものである必要はありません。 「今」リソースであればいいので、いつでも変わってもOK...

身体の症状と付き合う

少し前に、とうとう新型コロナウィルスにかかってしまいました。 発熱と独特のしんどさが過ぎ、症状がようやく治まって回復した後、就寝中に、言葉では表現できない「妙」な感覚で何度も目が覚めてしまうという後遺症状?が出ました。 震えのような、身体がモヤモヤしたような、とても不快で耐え難い感覚。 寝たいし、この感覚は不快だしで、身体に緊張感が走ります。 何とかなくならないか…と思うわけです。 それで身体を動かしたり、さすったり。 でもふと、この「妙な感覚」に主導権をあげてみよう、という思いが出てきました。 あんまりにも妙なので、「この感覚は何がしたいんだろう?」というようなことを思ったわけです。 主導権を渡すというのは、実は結構難しいです。 自分に力が入っているのはわかりますし、どうしても「妙な感覚」のほうを追いやりたくなるので、入っている力を抜くことができません。 ですので、入っている力もそのまま、また「妙な感覚」もそのままにしてあげるよう意識を向けました。 「私が何とかしよう」というような意識ではなく、「妙な感覚」の微細な動きに興味をもって注目するような感じです。 「妙な感覚」とそれに抗いたくなる力とが拮抗している間がちょっと苦しかったのですが、その拮抗の山を越えると、「妙な感覚」がそのままでいる感じがしてきました。 そうすると、「妙な感覚」は不思議と自由になり、私の身体を通って抜けていき、スーッとなくなるのです。 「妙な感覚」は、その後数日続きましたが、コツをつかんだので、毎回拮抗の山を越えるまでちょっと四苦八苦しながらも、「妙な感覚」が自由に動けるようにするよう意識を向けました。 そのたびに、「妙な感覚」はスーッと通り抜けて行っていました。 ここで書いたことは、身体症状に対する対応や治療というような対処法的なことではなく、むしろその逆です。 ・興味を持つ ・その感覚や部分の好きにしてもらう/したいようにしてもらう ・その感覚や部分と一緒にいる どちらかというと受動的であるがまま。 このような自分のありかたは、心理療法で心にアプローチするときと同じです。 心理療法は身体症状を治療するものではありませんが、身体症状と自分との「付き合い方」へ取り組むことができます。 上に書いた「妙な感覚」を、「辛い気持ち」「怒り」「深い悲しみ」などに置き換えてみてもらうと、「付き合い方」は...

よい感覚に留まる30秒

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カウンセリングセッションの中では、さまざまな感覚や感情が起きます(そのように進めていく心理療法のスタイルで行っています)。 カウンセリングに来られる方は、辛い気持ちや苦しい気持ちがあって、それを何とかしようとアクセスされるので、そういう「ネガティブ」なほうの気持ちは、比較的すぐに現れてきやすいのですが、 私が行っているアプローチでは、「ポジティブ」なほうの気持ちも同じくらい、 いえ、むしろ積極的に重視します。 ポジティブな気持ちとは、 満たされている感覚 誇らしさや自信、力強さ あたたかさや優しい感じ 大丈夫!とかホッとする安心感 これでいいのだと肯定する気持ち パワーやエネルギーの感覚 などがあります。 このようなポジティブな気持ちが現れてきたときはビッグチャンス! 私は逃しません(笑)。 その「よい」感覚や気持ちを味わったり、ただそのまま体験することを提案します。 「よい」感覚や気持ちは、必ず私たちの力の源になるからです。 この源をしっかりつくることや、力をいつでも感じたり使ったりすることで、「ネガティブ」なほうの気持ちも、より対処しやすくなっていきます。 また、良いものも良くないものも、全て自分の中で大切にしたり、自分のものとして統合していくことへつながっていきます。 ところが、ポジティブな感覚や気持ちを存分に味わうことが苦手な方は少なくありません。 良い感覚・気持ちをそのまま感じてみてください、と伝えると すぐに不安がもたげてきたり、いろいろな考えが頭に浮かんできたりして、 良い感覚・気持ちがあっという間にどこかへ行ってしまうということはよくあることです。 それは、慣れていないから。 あまり知らない感覚や気持ちが起きると、たとえそれが良いものであっても、「いつもの自分の状態ではない」ということが不安を引き起こすのです。 そして「いつもの自分の状態」に戻すように、身体や心が反応していきます。 それで、セッションでは「30秒味わってみませんか」と提案します。 たった30秒! でも、ちょっと数えてみてください。意外と長いんですよ~。 慣れていないと、30秒は長すぎて苦痛になったりします。 そういうときは10秒から。 そうして少しずつ慣れていって、30秒どころか、「良い感覚や気持ち」が満足するまで、「良い感覚や気持ち」が自然に進んでいくままに、好きなだけたっぷり味わ...

カウンセリングの頻度②

以前にも 同じテーマでブログ を書きましたが、頻度や回数について追記します。 前回のブログで書いたのは、頻度や回数について特に希望がない場合でした。どんな点で頻度や回数を決めたり、イメージすればよいか、です。 ですが逆に、「〇回で」とか、「1か月以内で」などのように、カウンセリングの頻度や回数、期間について、クライエントさんのご希望や状況がすでに決まっている場合はどうでしょうか。 私は基本的にはどのような頻度や回数でもお引き受けしております。 ですがそこには自ずから「制約」があります。 というのも、「頻度や回数」などは、あくまで現実的な状況による条件なのですが、「こころ」がそのような現実状況に合わせてくれるかどうかというと、それはやはりちょっと無理があるからです。 「こころ」は、現実生活や頭で考えていることとは全く別の世界にあります。 だからこそ「頭ではわかっているけれど」気持ちは辛いとか、気持ちはうごかない、ということが起きますし、それこそが「こころ」らしいありようです。 とはいえ、やはり現実的な条件や制約がある、ということはクライエントさんにとって切実なことだと思いますので、その条件や制約の中で進めていきます。 その場合は、 ①まずは問題となっている心理的なテーマについて明らかにしたり、整理する ということが、比較的短期間・少回数でも終了しやすいです。 心理療法はここからさらに、このようにして浮かび上がってきたテーマを全体的に深めていく作業を行うものなのですが、ここまででも、自分自身について理解が深まったり、以前とは違った見方ができたりするので、一旦はここで終結、ということが可能です。 ②ここからはクライエントさんとの協働作業になりますが、ちょっと勇気を出して、新しいことに挑戦してみることもできます。 私はセッションの中での体験的な作業を行うタイプの心理療法を取り入れていますので、感情や感覚の変容的な体験を進めていきます。 通常だとこの作業は不安や葛藤も大きくなるので、試行錯誤の期間が長くなる場合がありますが、 少ない回数や短い期間の中でも、いえむしろそのように限定された時間のなかだからこそ、クライエントさんの集中力が大きく発揮されることが多くあります。 この場合は、クライエントさんによって進め方を調整していますが、比較的説明を多く行いながら、なるべくクライエン...

「自分への愛は孤独の中では決して育たない」~「ALL ABOUT LOVE」②

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前回 からの続きです。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと辿っていくということを書きました。 bell hooksは続いてこう書いています。 自己受容は、私たち多くの者にとって困難だ。なぜなら、まず私たち自身に対して、次に他者に対してたえず批判をおこなう内なる声があるからだ。その声は際限なく否定的な批判をおこなう。私たちは、否定的であることの方が、より現実的だと信じるようになっているので、その内なる声は肯定的な声よりも現実的に思えるのだ。 「愛を失って受けた深い悲しみ」の体験は、それはそれは強烈な痛み。 その記憶は、頭にも心にも身体にも沁みつき、直接的に間接的に、意識的に無意識的に、今に影響を及ぼします。 自分に対しても他者に対してもおこなう内なる批判の声は、この「深い悲しみ」からやってきます。 もう二度とあの痛みに遭わないように。 批判して、自分も他者も不安と恐れの中に置いて、万全の警戒態勢を敷き続けます。 肯定的な声でその緊張を緩めるわけにはいかないのです。 支配の文化は、服従を確保する方法として恐怖を植え付けることに頼っている。(略)私たちは皆、ほとんどいつもひどく不安に思っている。私たちは、文化として安全という概念に取りつかれている。(略)恐れは支配の構造を支持する最も重要な力だ。恐れは分離の欲望、つまり、知られたくないという欲望を促す。私たちが安全はいつも同一性と共にあると教えこまれると、そのとき差異は、どのような種類であっても、脅威として現れるだろう。 私たちの中にある自己批判は、それを行った誰か、それを向けてきた社会が、私たちを支配するために行ったことでした。 悪意があったかなかったかは関係なく、彼/女らが行ってきたことは、私たちの中に支配の文化を刷り込むことでした。 とても悔しいけれど、自己批判も他者批判も、支配からの自由を奪われた結果だと言えます。 (私が取り入れている)心理療法で行うのは、この「恐れ」をまずは明らかにすることから。 恐れるのは当然です。 警戒態勢をとり、緊張していなければならないのも当然です。 あの時はそうだった。 そして、今の日常のなかでも。 自分の恐れを明らかにするのが怖いのも当然です。 それは「あの時」に通じることだから。 でも、セッションの間は「あの時」...

「愛」に基づくこころの実践~「ALL ABOUT LOVE」①

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ブラック・フェミニズムを代表する文化批評家・教育者・活動家ベル・フックス。 彼女の名前「bell hooks」は、カタカナで書くと、小文字のみの表記に込めた思いが薄れてしまうのが残念なところ。 数々の有名な本が翻訳出版されているので、ぜひ。 私は「 フェミニズムはみんなのもの 」を若い頃に読み、心が震えるほどの力をもらったことを覚えています。 そのフックスの著書の一つ、「ALL ABOUT LOVE~愛をめぐる13の試論」。 この本では、「愛」を、情愛の感情や関係とは異なるものとして提示しています。 愛とは愛のおこなうところのものである。子どもたちに愛を与えるのは私たちの義務だ。私たちが子どもたちを愛する時、彼らは所有物ではなくて、彼らには権利があるのだと ―私たちは彼らの権利を尊重し擁護すると― あらゆる行動で認めることだ。 正義がなければ、愛は決して存在しえない。   愛への目覚めは、私たちが権力と支配の強迫観念を手放した時にのみ起こり得る。 愛の倫理はすべての人が自由である権利、存分に申し分なく生きる権利を有することを前提とする。 ここで示される「愛」は、ロマンティック・ラブの「愛」ではなく、個人と社会のすべてに自由と尊厳をもたらすものとして示されています。 では、心理療法と「愛」のテーマはどのようにつながっているでしょうか? 最初に見捨てられたときの(略)心の傷は、どんな人間関係も癒すことができなかった。(略) 過去に戻ることは決してできない。(略)ずっと昔、まだ幼くて心の願いを声に出して言えなかったとき、愛を失って受けた深い悲しみを解き放って初めて、私たちは心から望む愛を見つけることができる。 「愛」が得られなかった記憶。「愛」を失った記憶。 このような傷は、「愛」の倫理と実践がないところ ―つまり正義がないところ― で起きます。 見つけられず、認められず、癒されないままの傷は、心の奥深くに残ります。そして「愛」の倫理と実践を行うことを困難にします。 心理療法は、今、別の形で現れている「問題」「感情」などを通して、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へと進むプロセスの時間。 逆に言うと、今別の形で現れている問題や感情は、「愛を失って受けた深い悲しみ」の場所へといざなってくれているのです。 でも、 たんに、どのようにして自分は価値がないと思うようにな...

たった1つの「欲しい」が叶うこと(「猛スピードで母は」「サイドカーに犬」から)

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長嶋有さんの「猛スピードで母は」には2作収納されています。 2001年の芥川賞受賞作で、もう1編は「サイドカーに犬」。こちらは映画でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。 どちらも味わい深いお話なので、物語はぜひ読んでいただけたらと思いますが、ここでは2つの作品に共通する1点を取り上げたいと思います。 それは、「欲しい」という気持ちについて。 前半に掲載されている「サイドカーに犬」の小学4年生の主人公・薫は、喧嘩の絶えない両親を持ち、母が出て行ってしまいます。 入れ替わりに、父の愛人の洋子さんが家にやってきました。 サッパリ、サバサバした性格の洋子さんがスーパーへ買い物に薫を連れ出します。 菓子売り場で洋子さんは振り向いて  『「なんかほしいものない」といった。私はどきどきした。』 薫は、何かをねだるのが苦手でした。  『やっとのことで、麦チョコを、といった。』 「猛スピードで母は」の主人公・慎は、シングルマザーの母親と二人暮らし。生活に追われる母は家を不在にすることが多く、小学6年生の慎は、団地で一人で過ごすことも多くありました。 忙しい母の顔色をうかがい、学校でも寡黙に過ごす慎。 そんな中、祖父の看病のため、母と二人、祖父の家と自宅を車で往復する生活が始まりました。 ある早朝、母は出勤、慎は登校するために、祖父の家から自宅の団地まで戻ってきたものの、家の鍵と一緒に車の鍵も車内に残してドアを閉めてしまいます。学校の鞄も何もかも家に置いたまま、入ることができません。 母は「仕方ないからそのまま学校へ行きなさい」と慎に言いますが、慎は珍しく抵抗します。 母にも誰にも言っていなかったのですが、慎はクラスメートからいじめをうけており、その日は大切な本を持ってくるよう命令されていたのです。 「手提げがないと学校へ行けない」、慎はおずおずと言います。 あきれながらも理由をそれ以上聞かなかった母は、「わかった、もう」と言って、団地の壁の梯子を4階まで登り始めました。 薫も慎も、親は自分の生活と自分の気持ちで精一杯。二人は、子どもを情緒的に満たすことができない親の元で育ち、親の顔色をうかがいながら、自己主張を抑えこむ子どもでした。 二人の「こころ」は親からは透明にしか見えなかったか、「こころ」まで視線が届かなかったよう。 そうすると子どもは自分の「こころ」を外に出すことはで...

同じものを共に見る

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私の50mほど前を歩いている人がいました。 彼はふと立ち止まり、しゃがみこんでスマホで写真を撮り、また歩き出しました。 彼が立ち止まった地点に私が辿り着いたら、そこにはこんな花が咲いていました。 コンクリートの割れ目から咲く花。 可憐だけれどたくましさを感じ、ステキだなぁと思いました。 そして、私もシャッターを切りました。 同じものを見て、同じように手が動いて写真を撮る… そのことに、じんわりと心があたたまりました。 「共同注視」は、同じ空間の中で同じものに注意を向けることを意味します。 これは子どもの成長とともに現れてきて、他者との関係をつくる上で重要な機能をはたします。 注意を向ける対象を共有することで、より複雑なコミュニケーションが行われるようになり、より複雑な理解が可能になっていきます。 前を歩いた男性と私は、この花を同じように見て、何かを感じ取る、ということが起きました。 ほんの小さな、取るに足りないような瞬間、これが私を世界につなげ、私が世界の中で生きていることの実感へとつながっていきます。 カウンセリングで行うのは、この「共同注視」の作業と言えます。 クライエントさんが抱えるテーマ、クライエントさんが感じる様々な思いや感情、クライエントさんの中にいるいろいろなクライエントさん。 カウンセリングを始めたころは、クライエントさんはこれらを一人で抱え、そのためもあって、自分自身と一体化しています。 それを少しずつ切り離しながら、クライエントさんとカウンセラーの、「私たちのもの」として一緒に見ていきます。 この「共同注視」の状態にまで至ると、カウンセリングはグッと進み深まっていきます。 それはまるでこの写真の花のようなのです。 コンクリートの割れ目から萌え出た花。 (クラエイントさんの内側に)隠れていたものが現れてくるとき。 クライエントさん自身も見て、感じることができるし、私が見て感じていることを、クライエントさんが知ることができます。 それはすでにコンクリートの下にあったもの。 それを一緒にみつめる、そういうプロセスです。