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トラウマ化を防ぎ、トラウマを改善するもの

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「山」続きですが。 こちらの仕事と並行して従事している勤務先の仕事で、竹内洋岳さんの講演会を行いました。 日本人初、8,000m以上の14の山を全て登頂した方です。 14座完登した人を、その偉業を称え、14サミッターといいます。 8,000m級の登山では、これまでも数多くの死者が出ています。 竹内さんもまた、同行者は亡くなってしまったという大変な事故に遭い、九死に一生を得る登山をされています。 命に関わる大けがから救出された後、竹内さんは暴れて大激怒していたそうです。竹内さんご自身はその時の記憶がなかったそうですが。 「登山の哲学」NHK出版新書 407 「下山の哲学」太郎次郎社エディタス トラウマセラピーを行う心理士として興味をもったのは、記憶がない救助直後以降に大激怒して暴れていたというところ。 生命の危機は、強い恐怖の感情と身体状態を引き起こします。 命の危機のその瞬間に典型的に現れるのは凍りつきの反応。 その後に襲ってくるのは震え。それが恐怖の感情とつながります。 この一連の身体反応が完全に完了しなかった場合、恐怖の記憶は身体化する場合があります。 思い出すと恐ろしさに襲われるとか、そもそも思い出すことができないとか、 思い出として恐怖感はなくても、身体が覚えていて固まってしまうなど。 身体はまだあの時の危険を覚えていて、今も警戒状態をいつでも発動できるようにしている、と言えます。 でも、竹内さんが体験された怒り。 これは命のエネルギーを発露するパワーでもあるので、怒りによってトラウマ化が起きなかったのかもしれません。 ご著書を読んでて感じたのは、竹内さんが、常に第三者的な視点で自分と状況を見ていることでした。 トラウマに限らず、心理療法は、自分や状況を俯瞰して観ていくプロセスです。あるいは、結果的に俯瞰して観ることができるようになるもので、そのようなまなざしが、深い癒し、存在感、つながりの体験をもたらします。 第三者的な視点は、トラウマ化を防ぐことにも、トラウマ化した状態を改善することにも役立つと考えられます。 これは、竹内さんがされていたように、日々の積み重ねの中で身につけていくことができますし、誰でもそれは可能です。 セラピーでも、それが蓄積されているのを、クライエントさんから感じています。 サインもいただきました! ありがとうございます

トラウマを癒やすのに必要な感覚

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前回のブログで取り上げた「夜明けまえ、山の影で」 。 著者のシルヴィアは、性虐待や性被害を受けた仲間とともに、エベレストのベースキャンプを目指して歩いていました。 ベースキャンプでも標高は5,000m超。 高度順化のために何日かかけて歩いていくその途中、エベレストの頂が見えました。 私たちは黙ったまま、しばらくエベレストを見つめていた。 「お母さんみたい」ヒメナ(※参加者の1人)が小さな声で言った。 エベレストを見るとき、なぜささやき声になってしまうのか、私にはわかる。 圧倒されるからだ。自分の小ささを知り、自分が、自分よりもはるかに大きいものの一部であると感じる。自然を通してトラウマを癒やすのに必要なのが、この感覚だ。  この感覚は、自分でじっさいに経験してみないとわからない。トラウマはスプーンで簡単にすくって取り除けるようなものではない。あなたの中に巣くい、悠然と、ときに静かに、いつまでも居すわる。そしていつだって、ほんの一瞬で、あなたを破壊する力をもっている。 (p.144) 「大いなるもの」を感じる体験。このようなスピリチュアルなイメージや感覚は、心理療法ではとても意味深いものです。 大木。満点の星空。広がる大地。 日本のクライエントさんからは大自然が現れますが、海外では神が浮かぶ方もいるそうです。 私が初めて2,000mを超える山を登ったのは中学生の時でした。 苦しい登り道をただひたすら歩いて辿り着いた山の頂。 そこからはるか下方に、当時住んでいた街の灯が小さく瞬いていました。 あんなにちっぽけな瞬きに自分は暮らしていたのだ その時に感じたものは、私の表現力では言い表すことができません。 でも今もありありとあの灯が思い出されるのは、私の中に表象として残り続けているから。 思い出さなくても、私を支えてきた場面の一つなのでしょう。 今年の北アルプス 高所登山は、気軽にできるものではありませんが、「おおいなるもの」はあらゆるところに存在します。 誰もに「おおいなるもの」との出会い、つながりが、意味あるものとして存在することを願います。

”誰かとともに登る道のりにこそ安心と癒しがある”

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「自分の歩いた道のりを振り返ってみないと、自分がどれだけ遠くまで来たのかわからないときがある。頂上に立つとは、たんに何かを成し遂げるということではない。長い時間をかけて影の中を歩き、その向こう側に何があるのかを知ることができる、ということだ。他の女性や、男性とともに歩く方法を学ぶということだ。ひとりで張りつめながら生きるのではなく、周りの人と助けあうことを学ぶということだ。誰かとともに登る道のりにこそ安心と癒しがあると、知ることだ。」   シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著 『夜明けまえ、山の影で』双葉社 家の掃除の仕事をしに来ていた遠い親戚の男性に、6歳のころから数年にわたり性虐待を受けてきた著者は、被害を親に言えないまま成長します。男性に、「内緒だよ」「お父さんに頼まれたんだよ」と言われていたからです。 被害を受けることがなくなってからも数年の間、誰にも言えずにいた著者は、高校3年生のときに、厳格で支配的な父親の怒鳴り声が引き金になって「秘密」を吐き出します。そして、それをきっかけに受診した精神科医の勧めでアメリカに留学することになりました。“忌まわしい”思い出のある場所を去り、新しい地で人生を過ごすために。 しかし性虐待のトラウマによる影響が現れ始めます。ワーカホリックになり、アルコール依存とセックス依存を抱え、苦しむようになります。 さらに愛する人を失うという辛苦のどん底へいたり、故郷のペルーの母の勧めで、伝統的に行われてきたアヤワスカという幻覚剤を用いた儀式を受けます。そこで著者は、6歳の自分のイメージと出会います。 この女の子を、自由にしてあげたい。山に連れて行ってあげたい。 登山はその強い思いから始まりました。 そうして、最高峰のエベレストへ向かいます。 女の子を、地球で最も高いところへ連れて行ってあげるために。 体調や悪天候で困難を極めた中、著者は世界最高峰へたどり着きます。 そして、冒頭の引用に思い至るのです。 山登りのメタファーは、セッションの中で時々現れることがあります。 自分が歩いてきた道。これから歩いていく道。 頂上に至るということ。 そして下っていくということ。 共に歩む人。 歩調を合わせて同行しているわけではない、でも同じ山を登る誰かの存在。 登山をしてきた私にとって、「山」は身体に浸み込んでいる記憶。 ですので、クライエントさ...

変化までの2年

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私は、洗髪はシャンプーではなく石鹸をつかってます。 それまでは市販のいろいろなシャンプーを使っていました。 だいぶん前のことですが、お金を節約したいな~という動機、そして二番目に、石鹸洗髪への興味がわいて、石鹸を使い始めたのでした。 石鹸は、洗浄だけではなく保湿の機能もあるそうで、自分に合ったオイル成分が含まれているものを選ぶのがポイントだとか。 大学の時の指導教員の先生(アフリカ研究)が、肌が弱くてどの石鹸もダメだったけれど「アフリカ滞在時に出会ったこの石鹸だけ大丈夫だった」とお話になったアレッポの石鹸のことを思い出し、それ以来、洗髪はずっとこの固形石鹸です。 1個で何カ月ももつので、すごくリーズナブルです~。 画像は「アレッポの石鹸ONLINE SHOP」からお借りしました。 石鹸洗髪の後は、髪を弱酸性にするためにクエン酸やお酢でのリンスが必要です。 石鹸洗髪を始めると、なんと!髪がものすごいことになりました! ゴワゴワして、ブラッシングも大変なほど。 以前に使っていた市販のシャンプーのようなサラサラ・ツヤツヤはなくなり、とんでもない状態でした。 決して美しいとは言えない髪。 でもなぜか、不思議と市販シャンプーに戻そうとは思わず、「ゴワゴワでもまぁいいやー」と思って使い続けていました。 そうして2年ほどたったころ。 ふと気づくと、あれほどゴワゴワしてひどい状態だった髪が、すっかりサラサラになっていたのです。 全部の髪が生え変わるのに4~6年かかるとのことですが、私の場合は、自覚的に感じるのにかかった時間が2年だったのだと思います。 こんなにサラサラで健康的な髪になるとは、始めたころには思ってもなかった効果でした。 髪の変化には、シャンプーや石鹸という、外的な要因だけではなく、髪自体が入れ替わる時間が必要だったのだろうと思われます。 身体の変化には時間が必要でした。 心理療法は一般的に長い時間をかけて変化をもたらすものです。 比較的早く変化をもたらすCBT(認知行動療法)などは、認知や認識(考え方、思考パターン)へアプローチしていき、変化を自覚しやすいものです。 一方で、身体に浸み込んだパターンや、コアにあって、感情や身体様式と結びついている認知は、変化に相応の時間がかかる傾向があります。 それは、身体が変化に慣れ、その変化が新たなデフォルトの状態となるまでに、身...

心理療法と平和

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もう30年前かと思うと、遠い過去の出来事ですが、ずっと私の心に残っていることがあります。 当時、定期的に活動していたグループがありました。その活動でご一緒だった方が、どういう流れだったかは覚えていないのですが、こんなことを語りました。 「私が生まれる前に戦争に行った父は、私を見ることなく戦争で死んでしまった。私は、父を恋しく思う気持ちと同時に、その父が戦争でしただろう加害を思うと、身を引き裂かれるように辛いのです。」 愛する人が、誰かを傷つけ、その地を蹂躙したのだということ。 その人の血が自分にも流れているのだということ。 涙を流しながら苦しそうに私に言っていました。 私の父と同じ年齢の方でした。 当時私は、何も言えなかった、何も返せなかったと思います。 ただ、その方の苦しみが伝わってきていました。 そして30年たった今でも、叫ぶように語った言葉と涙が、私の中でよみがえります。 その後、紆余曲折があり、私は心理職となりました。 光り輝く雷雲 臨床心理士養成課程の大学院の入学式。 研究所長がこんな式辞を述べられました。 「心理臨床は、心に平和をもたらすためのものです。 世界の平和のために、心理臨床を行うのです。」 その先生もまた、私の父と同じ年齢でした。 既にお亡くなりになっています。 現在受けているトレーニングの中で、世代間トラウマについて取り上げていました。 私は、あの活動仲間の方にセラピーを提供することはもうできませんが、このテーマが示されたときに、心理療法として取り組むことができるようになったと思います。 心理療法を通しての戦後処理。 心理臨床という「平和」のための活動。 心理療法というのは、お一人おひとりに対して提供するものですので、地球からすればごくごく小さな米粒のような意味しかないかもしれません。 でも、「心に平和」が、一人ひとりにもたらされること、 それを目指していきたいと思います。 「たった一人で見た夢が、百万人の現実を変えることもある。」 マヤ・アンジェロウ

ジェスチャーに込められている癒しの糸口

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日本語でのコミュニケーションでは、他の言語と比べてジェスチャーが少ないようですが、カウンセリングセッションの中で、ふとしたジェスチャーが現れることはよくあります。 先日トレーニングセッションにおいて、私は、未だに忘れられないある嫌な経験を取り上げたのですが、その話をしながら、手で払うジェスチャーが出てきました。 セラピスト役の人と一緒にやりとりをしていくなかで、手で払おうとするジェスチャーの腕には力がこもっていることが顕著になってきました。 その腕の緊張をしっかりと感じながら、手で払うしぐさをゆっくりとやってみました。 払い終えると、力が抜け、涙があふれてきました。 あの時に本当はやりたかった腕の動きを、今、完了させられたことで、緊張が緩み、そうして涙が出てきたのです。 涙にはいろいろな感情や思いがこめられていました。 話しながら手を胸に当てるというしぐさは、よく現れます。 意識して置いているのではなく、話しながら何とはなく手が自然に動いて、胸に当てられて。 その手と、手を当てられている胸とに注目して、ゆっくりと留まってみると、やはり涙があふれてくることがあります。 やさしく触れる「タッチ」には、不安やストレスを鎮める意味や効果があります。 タッチについてわかりやすく書かれています こんなふうに、ジェスチャーを含めた身体の動きには、自分を守ったり、助けたり、癒そうとする身体の智慧があるとして、それをより確かな経験として深めていくということを、カウンセリングセッションでは積極的に取り入れています。 無意識に自分でやっていることが、自分の身体が、安らぎや自由をもたらしてくれるのだということに気づくと、自分への信頼感が積み重なっていきます。

世代を超えるトラウマ

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「世代間トラウマ」(Generational trauma, transgenerational trauma)は、世代を超えて引き継がれるトラウマのことを言います。 「世代間トラウマ」は精神疾患の診断名ではありません。 ある人が抱える精神症状や人間関係の問題、思考や行動に、上の世代で経験されたことの影響が及んでいると考える、社会的な視点を踏まえたものです。 ある集団がトラウマ的な出来事を経験すると、その集団に属する人々が被る身体的または心理的な症状や状態が、不安、抑うつ、心臓疾患等の身体疾患、PTSD症状などとして次の世代にも引き継がれる傾向があると言われています。 戦争、人種差別と迫害、災害等によって起き、欧米の研究においては、先住民族、ホロコーストの生存者、アメリカの黒人が例として挙げられています。 雲の彼方、右奥に富士山 戦争トラウマは、日本において、十分注目されずにきたものでした。 終戦80年の2025年のこの8月は、メディアで目にすることが出てきました。 あのような甚大な加害を行い、被害を受けた日本。それが何の影響もないわけがないことが、ようやく明らかになってきています。 私は、終戦前後に生まれた両親の元に、高度経済成長期に生まれました。 私にとって戦争は「遠い過去のもの」。祖父母が経験したとはいえ、「自分のこと」としては認識しない、歴史上のことだと思ってきました。 でも数年前、心理療法のトレーニングのデモ練習で、自分も相手も、戦争の歴史の影響がありありと存在するのだという経験をしました。 その時は圧倒され、「影響」の部分を切り離して練習を終えたのですが、ずっと引っかかるものを抱えてきました。 今はそれが、私の中に、価値観、イメージ、思考や言動、そして身体においても色濃く影響を及ぼしているということを実感しています。 カウンセリングでも、戦争による影響がテーマになることが、直接的にも間接的にもあります。 現在受けているトレーニングでは、このような影響についても扱うことを訓練中です。 「トラウマ」を、個人の内側の体験に留めず、周囲とのつながり、コミュニティ、そして世代を超えて見る、そういう視点も大切にしていきたいと思います。

心理療法における「非暴力」について考える④

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心理療法における非暴力の実践、最後のテーマは、内なる「暴力」です。 これを「暴力」という言葉で表すのは、「暴力」という言葉がもつ意味合いからすると違うかもしれません。 「暴力」は、ダメージを与えたり、脅かしたり、傷つけたりなど、非常に攻撃的なニュアンスを含みます。 ですが、その目的であり結果でもある「支配とコントロール」という点に注目し、その点からこれを「内なる“暴力”」として取り上げたいと思います。 「それは身体の叡智です」② ~身体の記憶を体験する こちらのブログで書いたのですが、捕食者に捉えられたインパラは、ラッキーにも助かった後、激しく震え、その後立ち去りました。 この震えとその後の逃走がトラウマの治療に有効であることを発見したピーター・リヴァインは、ソマティック・エクスペリエンシング®というトラウマ治療のための心理療法を開発しています。 この本、出版社の廃業で現在は刊行してません 最近、知り合いの心理職の方のモニターを受けているのですが、それも、身体深部の震えを起こし、自然に解放していくということ行います。 震え。 これが起きると、人は恐怖や不安という感情が湧きおこります。場合によっては恥の感情も。 そうすると、震えを何とか止めようとして身体を硬直させてしまうのですが、そうして震えを止めてしまうと、震えは解放されません。 モニターで受けているのもトラウマ治療法の一つで、震えを止めずに、震えに任せる、身体に任せる、ということがポイントとなります。 つまり、自分に起きていることを「なんとかしよう」と、意識的、無意識的にコントロールしようとしないことが、解放にとって重要ということなのです。 こんなふうに、自分自身に対して、自分の身体に起きていることについて、何とかしようとしたり、何とかしたいと思ったりすること、 これ自体は、ごくごく普通に、誰にでもよくあること、誰でもよくやっていることです。 そして、良いことでも悪いことでもありません。 身体にとって必要なことを無視して、あるいは抑圧して、違うことを行うとき、それは身体に対するコントロール、つまり自分の身体へ「暴力的」であると言えます。 自分のさまざまな複雑な思いや感情を無視したり抑圧して、違うことを行うときも同じ。 でも、ただ、そうしていることに気づくことは大きな違いをもたらします。 このテーマは、以前にも様々...

心理療法における「非暴力」について考える➂

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心理療法における非暴力の実践についての、三つの層の二つ目について。 前回、善良な形に見えるけれど、そこに「支配とコントロール」が存在する場合について書きました。 善良な形をとって現れる支配とコントロールは、クライエントさんにとってだけでなく、セラピストも気づけないままに起こってしまう性質があります。 心理療法がおこなわれている場に持ち込まれてしまう「支配とコントロール」はなぜ起きるのか。 これを、三つの層の二つ目として取り上げたいと思います。 暑いですね~ 実はそもそも、心理療法自体が「支配とコントロール」の性質を帯びていると言わざるをえません。 心理療法(精神療法)は、学問領域の中では歴史が浅く、150年ほどしかありません。 その歴史の中で、今となっては否定されていることが、当時は効果があるもの、必要なもの、良いこととして行われていたという過ちを抱えてきた学問です。 障害者安楽死、精神科病院における非人道的な処遇、ロボトミー手術、性マイノリティへの矯正治療…。 このような暴力、非人道的なものだけでなく、心理療法の行われ方やクラエイント―セラピストの関係も、現在では法的、あるいは倫理的に問題となるようなことが、問題視されることなく行われていました。 これらは、「良いことだ」「効果がある」「問題ではない」という認識や無意識によって行われてきたのです。 これが起きてしまいがちな背景について、2つ取り上げたいと思います。 1つは、社会の構造自体が「支配とコントロール」であるということ。 社会の中で、より力(権力)を持っている人と、そうではない人が存在します。 もう1つは、教育(学び)に「支配とコントロール」が前提となっていることがたくさんあること。 その中に浸ってきた私たちは、刷り込みが日々積み重ねられて、いつのまに気づかずに、「支配やコントロール」をしてしまったり、逆に「支配やコントロール」されていたりします。 心理療法を行っているところで、クライエントさんとセラピストの間でおきる「支配とコントロール」は、私たちの背後にある社会の「支配とコントロール」がそのまま持ち込まれてしまいます。 前回記事で書いたような、クライエントとセラピスト間でおきる力関係だけでなく、その背後も視野に入れる、 社会における力関係が、セッションの場でどんなふうに現われるかにも注意を向けていく、 ...

心理療法における「非暴力」について考える②

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暴力の本質である「支配とコントロール」。 心理療法における非暴力の実践は、支配/被支配、コントロールする/されるという関係にならないようにすることを意味します。 また、そのような関係性の現れにフォーカスを当てて、それがどんなふうに影響を及ぼしているかということをテーマとして扱っていきます。 心理療法における非暴力の実践について、三つの層から見て行きたいと思います。 今回はそのうちの一つをとりあげます。 ハート型のシミをみつけました 心理療法は、クライエントとセラピストの二者関係において行われます(それぞれが複数の場合も含みます)。 立場がはっきりしてる心理療法という関係性において、支配とコントロールは、悪質な形でも善良な形でも現れます。 悪質な形がどのようなものかは想像がつきやすいと思います。 セラピストが酷い言動を行ったり、気分によって態度が変わったり、クライエントさんを「下」に見るような態度であったり、セラピストの意向でセッションを進めようとしたり。 一方、善良な形は、あまりピンとこないものです。 セラピストは心理療法の“専門家”なので、習得した知識やスキルを提供しますが、その提供内容が例え「正しい」ものであっても、提供の仕方によっては不適切になりえます。 「あなたのためを思って」となされる言動が、決して「私のため」ではないのと同じで、提供するプロセス自体に非暴力の実践が求められます。 提供する知識やスキルは、クライエントさんが求めているものかどうか、 クライエントさんに、それを検討し、選択するプロセスが十分あるかどうか、 クライエントさんにはNOを言えるプロセスがあるかどうか。 こういう点は、心理療法ではあいまいになりがちです。 その背景は次の記事で書きたいと思いますが、クライエントさんご自身だけでなく、セラピストにとっても、あまり気づけないままに進んでしまうことが比較的簡単に起きてしまうからです。 「良いこと(あるいは、効果があると実証されていること)」は行ってもよい、問題はない、明白だ、ということには、注意して意識を向けにくいためです。 でも、誰が、何が、「良いこと」だと判断したり、実感するでしょうか? なぜそれが「良いこと」なのだと判断できるでしょうか。 心理療法における非暴力の実践とは、ここにフォーカスを当てることではないかと思います。 それは本当に良...