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涵養(かんよう)~自然に浸み込むペース

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これは、乾いた畑の土に水を浸み込ませていく工夫の動画です。 水袋が水流の先頭にあって、その重みで水がゆっくりと流れていくようにしています。 乾いた土に水を撒くと、表面を滑り落ち、流れてしまい、土の中に浸み込みません。 我が家の小さな家庭菜園スペースに、新しく苗や種を植えて水やりをしました。 かなり長い時間水を撒いたのですが、軽く掘ってみてびっくり。 ほんの表面しか濡れておらず、その下はまだカラカラ。 水を浸み込ませるには、霧のような細かい水を、スプリンクラーなどで時間をかけて撒いたり、この動画のように、ゆっくりとした流れを作らなければなりません。 水が土深く浸み込んでいくには、相当な時間がかかるのです。 「涵養(かんよう)」とは、地表の水が浸み込み、地下水の層へ水が供給されること。 土に水がしっかりと浸み込んでいくには、ゆっくりとした時間が必要だということに重ね、無理をしないで少しずつ養うこと、という意味もあります。 この「無理をしない」というのは、自然のペースであり、科学的には物理的可能な動き、と言えます。 人間の身体があり得ない方向へ曲がったり反ったりできないし、あり得ないスピードで動くこともできないのにもかかわらず、私たちは、心に対しては「ありえない」動きやスピードを期待してしまうことがあります。 心の自由さや無限さを知っているし、いろいろな人の、いろいろな状況を見聞きするので、ミラクルを求めたくなります。 自分の心の「乾き具合」、「土の状態」はともかく、しっとりと潤う緑豊かな大地に早くなってほしい、と願いたくなります。 この深く強い願いはそのままに、 でも同時に、心の大地にも目を向けていきたい。 初めはなかなか浸透せずにもどかしく感じても、ゆっくり地道に水をやり続けると、しっとりよい土になっていきます。

根は生きている

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昨年、ほんの2,3日であっという間に盆栽を枯らしてしまいました。 葉が急にしおれ、枯れていったのです。 うかつでした…。 盆栽初心者のアルアルですが…(泣) でも、もしかしたら木は生きているかもしれない、翌年にはまた葉が出てくるかも、と思い、植え替えをし、水やりや肥料を続けていました。 そうしたら…! …新しい芽吹き! 木の部分はやはり完全に枯れてしまっていたのですが、根はまだ生きていたのです。 「樹木たちの知られざる生活」には、500年ほど前に切り倒された切り株が、実はまだ生きているということが書かれています。 葉のない切り株は光合成ができないので生きていけないはずなのですが、近くにある他の木の根を通じて栄養を受け取っている、ということが書かれていました。 私の盆栽は鉢植えなので、他の木から栄養をもらっていたわけではないのですが、根が生き続け、そこから新しい命を生み出しているというのは、深い驚き、そしてよろこびがありました。 いえ、新しい命というのではなく、全体が命そのもの。 植物は、人のこころのメタファーとして受け取るものが多いなぁと感じているのですが、 心が暗く沈んだり、エネルギーを感じられないような中でも、 細胞の一つひとつ、身体そのものは命を続けていて、 それは頭や心では感じられなくても、確かにあるのだ、 そういうことを、この小さな盆栽から感じました。 …そうしてしばらくすると、また新しい芽が。 盆栽としては、「美しさ」の基準からは外れてしまったと思います。 でもこれもまた一つの世界。一つの宇宙。 そういう気持ちで、お世話を続けようと思っています。

自分と世界を遮る壁

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孤独のイメージって、どんな感じでしょうか。 真っ暗な場所の隅で一人うずくまっている ブロックの高い壁や鉄条網に囲まれていて外に出られないし、誰も入ってこられない 分厚い開かずのドアの前で立ちすくんでいる 真っ暗な夜の海に浮かぶ小舟 そこから出たいという気持ちと、 出るのは怖いという気持ち。 誰か助けに来てほしいという気持ちと、 誰にも入ってほしくないという気持ち。 孤独のイメージの中にいる「私」は、こんな相反する気持ちに揺れ、引き裂かれ、疲れ果ててしまいます。 「私」と、その「場所」や「障壁物」を分けてみることができると、 「私」がいた場所に入り口ができたり、その場所が開かれて、「私」に少しずつ近づいていくことができます。 「私」と一緒に、しばしの間留まってみて、そこから、その障壁物や場所を見てみると、 それが「私」を守るために存在したのだということが降りてきます。 障壁物の強固さ、誰もいない場所のその広さが、 「私」を守るためのものなのだったとわかります。 こんなにも強さや距離が必要なのだったと。 障壁物や場所の強さや広さがしてきた意味を知ると、その壁や部屋、場所は、喜んでくれます。 「私」を守ろうとしていることに、誰も気づかなかったし、「私」にさえその意味を忘れられていたのですから。 そうしていくと、障壁物も場所も、「私」を守る方法を変えてくれるようになります。 やりすぎないぐらい、ちょうどよいぐらい、大丈夫なぐらいを、 障壁物や場所だけに頑張らせないでいられる こんなプロセスが心の中で起きていきます。

身体に委ねる

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前回は(も)、自分の身体へ注意や意識を向けていくことについて書きましたが、「身体」そのものを体験することが増えていくと、深い安心感のようなものがつちかわれていきます。 「頭」で認識する自分や身体ではない、「身体」そのものの世界の体験。 大分前のことですが、私が体験したワークについて書きます。 それは身体へダイレクトにアプローチするタイプの心理療法の一つで、さまざまなワークがありました。 先生の指示のもとに行ったワークの一つは、立った姿勢から、ペアの人のサポートの元に、ものすごくゆっくりゆっくりと前へ倒れていく、というものでした。 立った姿勢でそのまま前へ倒れていくと、地面にうつぶせの状態になりますよね。私もそうでした。 でも参加者のうち数名は横向きに丸まって倒れていました。 このワークが終わり、先生は、 「横向きになっている人は、帝王切開で生まれた傾向があるんだよね」と言いました。 その参加者の中では、横向きになった人は全員帝王切開での出生で、うつ伏せの人は全員経腟分娩での出生…! みんなびっくり~、でした。 他のワークもいろいろ行って感じたのは、身体には、自分の頭では意識されていない「何か」があること。 それは、身体へ「委ねる」「まかせる」ことで体験されること。 その身体の体験は、良いも悪いも全くなく、ただそれだけであり、 むしろ身体は必要なことを知っている、 ということでした。 (頭では)よくわからないけれど、身体が知っているのだというのは、深い安心感、信頼感の感覚をもたらしてくれます。 でも、身体に委ねていくことが、身体に完全に明け渡してしまって、自分を見失ってしまうんじゃないかという不安や恐怖を「頭」が感じたり、 そもそも身体に注目するって???と、どうしたらよいか全くわからなくて困ったり、 ということは決して珍しいことではありませんし、その「能力がない」なんていうことも全くありません。 特に虐待や暴力のトラウマがある人にとっては、身体感覚をシャットアウトすることが生きのびるために安全だった過去の経験があると、身体へ注目することが、強い不安や恐怖感を引き起こすこともあります。 ですので(しつこいですが💦)安全な範囲で少しずつ、が大事。 誰もが、意識されていないだけで、安全な身体の感覚世界はあります。

自分の感覚世界を体験する

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以前心理療法を受けた時、セラピストから、「あなたは思っていることや感じたことが表によく現れてますね!」、すごくわかりやすいと言われました。 自分で自分のことは見えないので知りませんでしたが、そうなのかもしれません。 つい最近も仲間とのトレーニングでクライエント役をやったときに、「表情に感情が現れていて、ものすごく伝わってきた!」とオブザーバー役の人に言われました。 このことは、ちょっとした驚きであり、納得でもありました。 私は子どもの頃、「何を考えているかわからない」とよく言われていました。 あまり話をせず静かで大人しかったこともあると思いますし、自分の思いが感じられ、現れてくるまで、時間がかかるほうだったこともあると思います。 また、転校を繰り返していたので、環境になじむまでの間は特に、自分のことはさておき周りのことをよく見なければならなかった(と思っていた)ことも重なっていたかもしれません。 でも恐らく、「何を考えているかわからない」と言われたことが実際の自分へ影響し、「わかりにくい私」という自分像になっていったのだろうと思います。 私が行っている心理療法のアプローチは、身体の感覚や自分の内側で感じたことに注目し、それを「ただそのまま」に感じたり見つめたりしていくことを重視します。 そのため、私自身も自分の身体の感覚や内的世界の体験に開かれていることが重要になります。 現在の心理療法のトレーニングを始める前から、ヨガは25年ほどやっていたり、大学院のころから、身体や身体的体験のワークショップやトレーニングにたくさん参加してきました。 きっと無意識に関心が続いてきたのだと思います。 そして現在の心理療法のトレーニングを受け始めたころから、より意識して、より積極的に、注意を向けたり、感じることをしてきました。 そうして、いつの間にか、自分の感覚や世界を、自分なりに感じ、自分なりに体験するようになり、それが自然に人にも伝わるようになっていたのだということに気づき、 自分の変化に驚くような、これまでのプロセスを振り返れば納得するような気持ちになったわけです。 現代の社会で生きていく上では、早いスピードで考え、理解し、行動に移すことに重点が置かれがちです。 また、人との関りや人からの情報が増え、多様になっているので、他者や社会の価値観が自分の中に侵入しやすくなっています。

自己嫌悪と恥 ➂

「しまった!今の私の○○(行動や言ったことなど)は、まずかったんだ!」 というときに「恥」の感情が出てきます。 「まずかった!」とわかるのは、自分に不利益や不快、痛みが起きたからです。 相手が不愉快な様子や戸惑いを見せたりして、自分が気まずい思いをする、というようなことから、仲間外れにされたり、暴言や暴力を受けたりするということなど。 ですから、「恥」が出てくると、そのときの「○○」をストップします。 ストップしなければ、不快さや痛みは続いてしまうので、ストップするのは、理にかなった選択です。 「恥」はこのように、これ以上嫌な目に、痛い目にあわないようにしようと教えてくれているのですよね。 そうやってストップすれば、そのときに生じた痛みや悲しみ、不快感などがひどくなるのをストップできるわけです。 「恥」はとても苦しい感情なのですが、こんなにもすごい役割を担っているのです! 恥の感情はとても強烈なので、恥を感じる出来事や経験の衝撃が大きかったり、小さくても何度も積み重なっていたりすると、 「しまった!」→「恥」→「ストップ」 の流れはほとんど瞬時に起きるようになり、中間にある「恥」を飛ばして、 「しまった!」→「ストップ」まで加速するようになります。 このパターンが、自分の中に深く深く浸み込んでいると、「しまった!」の部分はものすごく敏感になり、自分でも意識されないようなことで反応し、 「ストップ」 だけが残るようにもなります。 「ストップ!」によって一旦安全確保はできたのですが、同時に、「しまった!」という状態において起きた別の感情も隠されました。 その別の感情は、痛かった、怖かった、寂しかった、悲しかった、というような辛い感情であったり、 うれしかった、興奮した、楽しかった、自信を感じた、というような、喜ばしい感情でさえあったりします。 カウンセリングで進めていくのは、「ストップ」の状態に気づき、 その状態に、そ~っと、やさしく意識を向けていきます。「恥」を驚かさないように。 そして、ほんの少しでも「今は大丈夫なんだ」ということを確かめていきます。 「恥」が、頑張って発動しなくてもだいたい大丈夫と思ってくれるようになるのと並行して、 「ストップ」によって隠されていた、あの、大切な感情に向かって、「今はそれを感じてもいいんだよ」と声をかけていく感じ。 凍結されていた

自己嫌悪と恥②

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前回 から続きます。 自分を恥じたり自己嫌悪を感じている、と自分でもう気づいていたなら、そこへ取り組んでいくことができますが、恥と自己嫌悪のやっかいなところは、そう感じていること自体を隠してしまうところです。 明らかな過ちを犯してしまって感じる恥は、自分でも気づきやすいのですが、「自分=恥の存在」が深く浸み込んでいる場合は、次のようなことにも恥と自己嫌悪が引き起こされます。 自分への高い理想が実現されなかったり自分に課した要求を遂行できなかったとき 「エラー」範囲でしかないような通常のミス ある程度成功したりやり遂げたとき 人からの注目、視線 相手の、ある表情、ちょっとした言いよどみ、声の微妙な変化、微妙な手足の動き 自分の意見や希望を言うこと ゆっくりしていたり、手を抜いたりしたとき 楽しかったり幸せに感じたとき びっくりさせられたとき あるニュースや情報を目にしたとき 誰かに(優しく)触れられたとき これって、何でもあり、全部ですよね…。 そうです。恥が引き起こされるきっかけは、その人にとっての「何か」。 それは具体的なことだけでなく、ありとあらゆるものがきっかけになります。 自分では気づかないような、意識されないようなことも。 恥や自己嫌悪が、「恥」「自己嫌悪」としては現れずに隠れているとき、こんな感情や感覚が起こります。 不安 緊張 恐怖 遠慮 うしろめたさ 怒りやいら立ち 悲しみ 焦り 戸惑い 満たされなさ 孤独感や孤立感 無感覚(硬直した感じ) パニック こわばり、震え、のどの詰まり、早い鼓動 腹痛・頭痛、気持ち悪さ こんな感情や感覚は、決して快適ではないので、身体も心も、何とか回避したり、不快さを減少させようとすぐさま何かの反応や行動を起こそうとします。 そうしてさらに、「自分=恥」と気づかれないように隠れていくのです。 ですので、「自分は自分を恥じている、嫌悪している」「自分をこんなにも恥じているのだ」ということに気づくところまでは、結構な道のりになります。 次回へ続きます。

自己嫌悪と恥①

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カウンセリングを求めることになったネガティブな感情の中で、最も圧倒的で強力なのが、自己嫌悪の感情です。 私はダメな人間だ 私はたいしたことがない 私は誰にも受け入れられていない 私は生きている価値も意味もない 私の人生は真っ暗だ 自分や人生について、このように認識されている場合もありますし、意識されていない場合は、強い不安感や孤独感、強迫的な焦燥感、苛立ちや激しい怒り、空虚感などのような感情として体験されています。 このような状態は、「あ~やっちゃったなぁ、ダメだったなー」というような、ちょっとした自己嫌悪感とは全く異なっていて、 自分を乗っ取り、占領し、支配していき、自分=恥ずべき存在であるという自己観をつくっていきます。 そしてこの感情状態は、そう簡単には小さくなったり、離れてくれたりせず、ことあるごとに自分を完全に覆いつくすのです。 こんなふうに書くと、「なんて恐ろしいんだ~!」「もうお先真っ暗だー」と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。 なぜなら、この強烈な自己嫌悪と恥の感情は、自分を痛めつけようとする別の激しい感情や体験から自分を守ろうとしてきた結果なのであり、 そして今となっては、そういう強すぎる感情が起きそうだ!という警告の役割を担っているという側面があるのです。 最初に書いた通り、この感情はとても強烈で自分と一体化しているため、カウンセリングでの「扱い」は簡単ではありません。 でも、ゆっくりでも、丁寧に、着実に進んでいくプロセスがあります。 自己嫌悪や恥の感情を引き起こした”引き金”(きっかけ)に気づくこと。 自己嫌悪や恥の感情がどんなふうに体験されているかに注目すること。 また、こんなに苦しい自己嫌悪と恥の感情がこれまで果たしてきた仕事、今も奮闘している役割を知ること。 こういう作業をカウンセリングで行います。 次回、もう少し具体的に書く予定です。

セラピー・ジャーニー ~ぴったりのセラピストに出会う旅

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アメリカやイギリスなどの英語圏では、自分にぴったり合うカウンセラー/セラピストに出会うまでを「セラピー・ジャーニー」と言うそうです。   自分にぴったり合うセラピストを探すのは、簡単ではありません。 この動画に出ている女性・サフランは、複雑性PTSD、鬱、不安障害の診断があり、初めてセラピーを受けたのは13歳。 そして現在のセラピストまでに5人と会ってきたそうです。 まさに「出会いの旅」。 最初からぴったりと合う人を見つけられるかもしれませんし、何人もの人と試してみる必要があるかもしれません。 ぴったりだと思っていても、続けるうちに変化していくかもしれません。 動画中のセラピストによると、セラピストを判断するためのポイントは3つ。 セラピストとの関係 どのようなタイプのセラピーか テーマとする問題に適しているかどうか 日本の事情を加えると、  4.支払い可能な料金かどうか、あるいは交渉可能かどうか  5.継続の頻度や間隔が、自分の希望に合っているかどうか こういうことも含まれると思います。 思い切ってためしてみたけれどイマイチだった…というのは、労力もお金も時間もかかることなので、なかなかハードな作業です。 ですが、「1回(数回)試してみよう」というお気持ちでスタートされることは、全く構いませんし、大歓迎です。 なにより大切なのは、あなたの「旅」であること、 そしてそれがよい旅になること。 ご縁があれば、しばらくお時間を共にし、 ご縁がなくても、ひとときの出会いは大切なものと思っています。

クライエントとセラピストの関係と社会的位置~「ポラリスが降り注ぐ夜」から

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台湾出身の作家・ 李琴峰 さんの「ポラリスが降り注ぐ夜」について短いエッセイを書く機会がありました。 「ポラリスが降り注ぐ夜」筑摩書房 7つの短編が収められていて、それぞれの短編の主人公が別の物語でも関係し、7つで全体を構成しています。 主人公、そして他の登場人物も、セクシュアル・マイノリティ。 李琴峰さん自身もレズビアンであることを公表されています。 エッセイを書こうとして、はたと立ち止まりました。 私は、誰に向けて、どう書こうとしているのか? 私はシスジェンダー女性です。 シスジェンダーというのは、生まれた時に当てられた性と、自分自身の性認識が一致していることを言います。つまり、性自認においてマジョリティです。 そして、シスジェンダー男性と法律的な婚姻をしています。ここでもマジョリティ。 「ポラリスが降り注ぐ夜」を読んでいると、登場人物の痛みが、それぞれの物語の中で、それぞれの形や温度で伝わってきます。 セクシュアル・マイノリティとして生きていくことの痛み。 それは、マジョリティによってもたらされた痛み。 そうして痛みをもたらしている側にいる私は、この本について、どう書くのだろう? ということが、私を立ち止まらせました。 心理療法においても、セラピストとクライエントの、それぞれの社会的背景を踏まえてセッションを進めることの重要性が指摘されるようになっています。 セラピストは、セラピストという立場自体が、クライエントよりもパワーを持っています。 それに自覚的であるために、セラピスト自身が、自分の社会的位置を表明してセッションを進めるというやり方がある、と教えていただいたことがあります。 これは、双方ともが、開かれて安全な関係を作っていくためのプロセスです。 ですので、「決まった正しいやり方」があるわけではありません。 何がよいのか、どうすればより良いのか、一緒に探っていくことになります。 先のエッセイについては、ひとまず書いたものの、モヤモヤ感は残ったままでした。 自分の様々な意味での力不足はベースにありつつ、モヤモヤ感自体が、次へつなげてくれるのかもしれない、とも思いました。 終わりにせずに、自分の中で起こっていることを見つめていくプロセス。 カウンセリングと同じだなと思った次第です。