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マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ②

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「マインドフルな気づき」というのは、今、この瞬間瞬間に起きていることを、評価や価値判断なしに、ただ「ありのまま」に見ているという状態です。 「昨日、上司にミスをとがめられた」という場面を例にしてみましょう。 そのことを思い出すと、恥ずかしい気持ちで苦しくなるかもしれませんし、怒りでイライラしてくるかもしれませんし、不安で自信を感じられなくなるかもしれません。 きっと、その人によってさまざまな感情が湧きおこる出来事だと思います。 マインドフルな気づきというのは、この場面を思い出している今、この時において、「身体が固くなっているな」「心臓がドキドキしている」「手足が冷たいなぁ」「足が浮いているような感じ」というようなことに気づくことです。 恥ずかしいとかイライラなどの感情が出てきたら、「こんな気持ちが出るんだな」と思いつつ、その感情は身体でどんなふうに反応しているのか…と注意を向けていきます。 マインドフルな気づきがPTSD症状への取り組みに効果があるのは、このような注意を向けている間は、その症状に圧倒されてしまうことがないからなのです。 ですので、PTSD症状へ取り組む時には、このようなマインドフルな気づきの状態を維持していくということがポイントになり、そういう意味で「マインドフルネスはPTSD症状に役立つ」と言えます。 一方で前回にも書いたように、マインドフルネス状態を目指すトレーニングや瞑想は、PTSD症状を持っている人が適切なサポートがない中で行った場合には、その症状が現れ、圧倒されてしまうこともあります。 それは、気づきを向ける方向や、気づきの維持について、細やかに見ていく必要があるためです。 また、マインドフルネス瞑想やトレーニングの中には、「マインドフルネス状態へ至ることが目的になっている」ようなものもあったり、 トレーニング自体はそうでもないのだけれど、トレーナーが無意識にそう指向していたりするものもあって、 そういう場にいると、「マインドフルネスになれている/なれていない」というような思いを感じてしまうことも起きます。 「マインドフルな気づき」はPTSD症状への取り組みに役立つだけでなく、生活や生き方にも良い影響を与えてくれる、すばらしい仏教の叡智なのですが(というよりは、もともとPTSD症状や集中力を高めるためのものではなく、仏教の実践そのものです)

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ①

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「マインドフルネス」はかなり広く知られる言葉になりました。 「マインドフルネスが不安やストレスを軽減する」という研究結果や実践の積み重ねがあり、「PTSD症状へのマインドフルネスの効果」についての研究もあります。 一方で、「マインドフルネスを行うとPTSD症状が悪化する」ということも言われています。 真逆の説明は、混乱してしまうでしょう。 いったい、どっち??? 先に結論から述べましょう。 マインドフルな気づきはPTSDに効果的ですが(症状としては現れなくなります)、マインドフルネスはPTSDを悪化させる場合があります。 もともとは、マインドフルな気づきや注意の能力が高まっていくと、PTSD症状の軽減やコントロールをもたらす、というものでした。 そこから、PTSD症状を軽減するためにマインドフルネスのトレーニングを行う、という方法が行われました。トレーニングによってマインドフルな気づきや注意の能力を高めていくことで、PTSD症状が軽減するという考え方、つまり逆方向の考え方で「トレーニング」が生まれたわけです。 マインドフルネス瞑想のトレーニングは、日々の積み重ねを何年も行うことで、マインドフルな状態へ移りやすくなったり、その状態が長く続くようになります(ヨギーがそういう状態です)。 「マインドフルネス」 「マインドフルネス瞑想」 「マインドフルな状態」 似たようなカタカナ用語が現れてきました!余計に混乱してしまうかもしれませんが、ここが注意どころです。 このような、似たような用語の意味するところが錯綜していることが、「マインドフルネスとPTSD問題」を混乱させているのではないかと思います。 マインドフルネスは、「 今ここでの経験に評価や判断を加えることなく注意を向けること」。 マインドフルネス瞑想は、そのような注意の向け方へと誘導していくことであり、その練習や実践です。 そして、今この瞬間に注意を向けている状態を、マインドフルな状態=マインドフルな注意の向け方が行われている状態、になります。 PTSD症状へのアプローチで重要なのが、3つ目の、「マインドフルな注意を向ける」ことです。 長くなりましたので、次回に続きます。

いじめられ経験の私を救い出す

子ども時代にいじめられたことがある方は、決して少なくないと思います。 私も、継続的であったり、大ごとになるまでではありませんでしたが、少なからずいじめの経験があります。同級生からも、先生からも。 嫌な感覚がよみがえるような出来事もあれば、「なんやの、あれ!」と相手を一笑に付せるぐらいの出来事もあります(私のストレートな感覚ではこの大阪弁なのはご容赦ください~!)。 いじめは、その時に辛かったり孤独だったりしただけでなく、多くの人に、その後の人生にも影響を及ぼす、とても強烈なトラウマ体験です。 さまざまな感情がひきおこされるような記憶ですし、身体的にもその記憶は残っていることが見られます。 身体には、無自覚な緊張感があったり、ちょっと硬直したような感覚や姿勢が現れたり、地に足があまりついてないようなフワフワした感じがあったりするかもしれません。 感情や行動では、対人関係での不安、自分への自信のもてなさ、距離をとって人と接していたり、逆に過剰に笑顔やフレンドリーさを維持していたり、 何より強烈なのは、自分自身に対する恥の感情です。 「いじめられていた自分」「いじめられるような自分だった」というような、自分自身の存在価値に関わる感情はとても強烈で、そのために、当時も、家族や先生、信頼できそうな友人に打ち明けることが難しかった人は多いと思います。 このような恥の感情はあまりにも強烈なので、私たちは普段、記憶に蓋をしていたり、覚えている出来事を遠くから眺めるような感じで語ったりします。 こんなふうにある程度「距離」をとって痛みの記憶に触れないでいられていること、 それは自分を守るすばらしい力です。 一方で、今の自分の、人間関係の難しさやしんどさ、気分の落ち込みなどに影響があるのではないかと感じているならば、 記憶を遠くに閉じ込めてきた力を尊重しつつも、あの時に辛かった自分を救い出しに行く時が今ようやくやってきてくれたのかもしれません。 あの時の、出来事の大小は全く関係ありません。 出来事が些細なことだったとしても、自分の中で残る衝撃は大きいということは普通にありますし、おかしなことでもありませんし、何より、それは自分のせい、自分の弱さや不甲斐なさのせい、なんてことは 全く ありません(強調しておきます!) それはあくまで、神経系の反応であり、その反応の記憶なのです。 カウンセ

味わう ~マインドフルネスはここにある

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細い道路沿いのコインパーキングに駐車しようとしたとき、車の前に小学1年生ぐらいの女の子が歩いていました。 その女の子がいたので、切り返しができずにいました。 大雨が降った直後。道路に水たまりができていました。 女の子の足が急に止まりました。 女の子は、一心に水たまりを見つめ、それから、そーっと足を踏み入れます。もう一方の足も、そーっと踏み入れました。 水面がかすかに揺れながら波紋が広がります。 この、たぶん時間にしたらほんの1,2分ぐらいの出来事。 女の子が体験していた世界が、それを見ていた私にも伝わってきました。 水たまりを見つめる集中した感覚。 ゆっくりと足を踏み入れ、靴が水に触れていく感覚。 それを受けて水が動きを作り出すところ。 靴が水に及ぼしているものが全身に広がっていく。 カウンセリングの中では、意図的に、このような体験の時間へと進んでいきます。 実際に周りにあるものを使ったり、イメージの中だけで進めることもありますが、 集中して、ゆっくりと、そしてとても繊細に丁寧に、自分の身体、自分の内側で起こっていることをみていきます。 たったそれだけのことなのですが、とても豊かな体験の世界がそこにはあります。 そこで体験されること、そして、体験することそのものが、多くのこと、必要なことをもたらしてくれます。 ですから、どんな体験も、どんなことも全て起こっていることには「意味」があるのです。 女の子が水たまりを味わったほんの1,2分ぐらいの時間ですが、この女の子にとって、これがこの時にとても重要なことだったように、 そしてそれを(たまたま)見ていた私にも「豊かさ」を一緒に味わえたように。 「味わう」。 女の子はぴょんと飛び出し、その後はもうすたすたと歩いて行きました。 きっと、女の子はこの経験は過ぎ去り忘れていくでしょう。 でも、このように経験したということ自体は、女の子の「生」に積み重なっていくものだと私は思います。 カウンセリングも、毎回毎回起きる「生」を積み重ねていくものです。

「それは身体の叡智です」➂ ~身体志向の心理療法の特徴とは?

ボディ・ワーク(オステオパシー)の体験から始めたテーマの3回目です。 身体に働きかける、身体を重要視するという点で共通するボディ・ワークと身体志向の心理療法。 さて、心理療法のもう一つの特徴とは? ボディ・ワークに限らず、気持ちの良いことや健康に良さそうなことを行ったり、服薬をしたりしたとき、効果や変化を感じる(あるいは感じない)、ということが起きます。 心理療法で注目するのは、このような「気づき」自体です。 効果や変化を感じる/感じないということに気づくというのは、そこに注意が向かう「私」がいます。 それはどんな効果(変化)なのか? 身体はどのようにその効果(変化)を私に知らせてくれているのだろうか? こういったことに、ゆっくり、しっかりと注目していき、自分なりの言葉で表していきます。 効果・変化に気づき、それに注意を向け、その感覚に留まってみると、感覚はより明確になったり、また新たな感覚が起きたりします。 そういう移り変わりもまた重要な体験。 体験し、気づき、それを味わい、その体験を言葉にしてみる。 言葉にしてみて、その言葉がしっくりときたら、それをまた体験していく。 これを繰り返していくと、不思議なことに、「全体性」のような感覚が生まれてきます。 そしてそこに、「私」の本質的な体験の感覚が存在します。 心理療法の特徴は、このように、注意を向けること、それを体験していくこと、言葉にすること、 この繰り返しによって、自己感の体験を深めていくところにあります。 人間は、大きな大脳皮質を持ったことで、物事を言語やイメージで思考したり、記憶するという点に、他の動物との大きな違いがあります。 身体志向の心理療法は、身体で起きる体験を深めていくと同時に、その体験を認識的にも深めていき、それらを統合するというのが特徴になります。

「それは身体の叡智です」② ~身体の記憶を体験する

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この動画は、捕食者(おそらく豹)に捉えられたインパラが、ラッキーにも助かった場面。 捕食者が去った後、インパラはしばらく死んだように固まっていますが、次第にお腹が膨らんだり凹んだりして、大きく呼吸している様子が見えます。そして座ったインパラは激しく震えだしました。身体全体が大きくブルブルと揺さぶられています。 その後急に立ち上がって走り去っていきました。 動物のこのような反応は生理学的に起きているもので、危機のまさにその時、そして危機が去った時の身体的な反応は、人間にも同じことが起きるとされています。 危険が起きたその最中は身体が硬直していたり、逆に馬鹿力が出ていたけれど、落ち着いてからガタガタ震えだす、というような身体の反応です。 人間が動物と異なるのは、言語やイメージを持ち、また複雑な社会性の中で生きているため、このような身体の一連の反応が起きずに途中で止まってしまったままになることがしばしばある点です。 これがトラウマ反応です。 先日、心理療法のトレーニングでデモ・セッションを受けました。 私が取り上げたのは、よくある小さなアクシデントでした。 「あんなこともあったな~」とちょっと自嘲的に思い出すぐらいの、普段は思い出すこともないような記憶。 しかし不思議なもので、身体はそのアクシデントの反応をしっかり記憶していました。 ※このように、身体は独自の反応的な記憶を持っているのですが、それが日常生活や自分自身に支障をきたすような場合に「トラウマ」とみなします。 アクシデントの場面を思い出すと、その時の緊張と焦りが甦って、身体が緊張しているのに気づきます。 デモ・セッションが進んでいく中で、緊張がほどけ、同時に、身体も心もホッとした感覚に包まれました。 そうすると、手先が小刻みに震えているのに気づきました。 「それは身体の叡智です」 この震えを講師はこんなふうに言いました。 身体に生じた強い緊張感や、思いもよらない震えに、私たち人間は動物とは違って、恐怖や不安を感じることがあります。 こんな緊張感を感じているって、怖いことが起きるのではないか? 震えているって、どうなってしまうのだろう? こんなふうな反応をしてしまって恥ずかしい… 脳が高度に発達した人間ならではの感情的な反応です。 身体の反応に驚いてしまうことが、人間らしさと言えるかもしれません。 前回のブログに書

「それは身体の叡智です」① ~オステオパシーの体験から

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先日、知り合いのオステオパシー治療家の施術を受けました。 atelier flowの山中暁子さん です。 山中さんが身体について語るお話が私は大好きで、一度受けてみたいと思っていたセラピーでした。 心理療法を行う私が言うのはなんですが💦、言葉や語りを用いる心理療法よりも、身体へアプローチする治療法のほうがずっとパワフルで効果が大きいと私は思ってきました。 そう思うようになったのは、大学院のときに受けたさまざまな身体志向の心理療法の経験からなのですが、 身体に記憶されているもの、 身体自身が求めていること、 こういう体験をすると、その叡智に驚き、興味を持ち、深い安心を感じたのです。 「私」が頑張らなくても、身体は何とかしようとしてきたし、何とかしようとしてくれているのだ…と。 身体へのアプローチは、身体の痛みや不具合だけでなく、心の不調や苦しみも変化をもたらします。 このようなボディ・セラピーも多種多様にあるのですが、山中さんが行っているのはバイオダイナミクス・オステオパシーというものです。 山中さんは、同じ空間にいるところから、そしてクライエントさんに触れる前から施術は始まっているということを話してくれたことがありました。 2人がいるその空間で、身体はどんなふうか? そして触れるのは硬貨1枚の重さほどの、そっと添えるような手。 それが、身体が必要なことが起きるプロセスなのだということを、優しく穏やかな声で話されます。 私自身の体験を少し書きますね。 私が横になった布団の周りで、山中さんがそっと声をかけてきました。 山中さんがそこにいて、私はどんなふうに感じるか? 最初に立っていた場所、立っていること自体に、私(の身体)は微妙な違和感を感じていました。 それを伝えると、山中さんはそっと動いて、私の身体がOKに感じる場所を確かめます。 これは心理療法でも行う場合があります。特に面談での初回。 椅子は置かれていますが、私が座る位置、クライエントさんが座る位置や方向など、どこが「しっくり」くるか、まず確かめてもらう時間を取る場合があります。 このような時間を過ごすことには、いろいろな意味があります。 私の体験に戻りましょう。 私の身体がOKだと感じた場所で、山中さんが、そーーっと手を首元と腰に当てました。 その手のあたたかさと心地よさ。 頭部と胸部に広がる”雑念”のワサワ

誰の中にもある「心の平和」とは

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心の平和でイメージするのは、どんなことでしょうか。 恐怖や不安がない感じ。 穏やかでほっとする感じ。 静かでゆったりとした流れの世界。 森絵都さんの「つきのふね」には、「心の平和」という言葉が出てきます。 主人公は中学2年生の女子・さくらと梨利の2人と男子・勝田くん。 女子2人はとても仲が良かったのに、ちょっとした出来事をきっかけに断絶していました。 そういう中で、勝田くんがさくらに言います。 「オレは、ひとりになるのがこわいんだよ」 「ときどき発作みたいにどっとさびしくなる。ぞっとするほど、さけびたくなるほど、気が狂いそうなほどさびしくなる。」 「でもさ、オレがそうしてキレそうになったとき、頭にこう、ふっと思い描くとなんとなくほっとする光景ってのがあるんだよ」 それが、今は話すこともできなくなってしまったさくらと梨利が楽しそうに話している場面なのだと。 「そういう姿を思い出してると、それだけでけっこう心がなごむっていうかさ。やばいムードから抜け出して、またすっといつもの自分にもどれそうな気がするんだよな」 勝田くんは、これを「心の平和」と言いました。 「心の平和」を持つ。 これは私たちにとって、とても重要なことです。 そんなものはない、私の心の中はいつも嵐が吹き荒れ、緊張感にあふれ、怒りや悲しみでいっぱいで、真っ暗な孤独しかない、と思う方もいるかもしれません。 でも実は「心の平和」は誰にもあるのです。 こちらの本には、このことについて丁寧に詳しく書いてありますのでぜひお読みください。 「心の平和」は、心理学的には「リソース(資源)」と言います。 リソースは、生きている人間には必ず存在します。 これは「心が平和」ということではありません。 「心が平和」ではなくても、心の中に(身体の中に)「平和」な部分はいつでもだれにでもあるので、それに気づき、意識を向け、その存在を確認します。 これはリソースそのものであり、またこのような意識の向け方がリソースをよりリソースにしていくことになります。 リソースは、心地よいものや幸せな気持ちになるもの、満たされるもの、ホッとするものでなくてもリソースです。 なんでもないもの、どうってことないこと、 これもリソースになります。 またリソースは、いつも同じものである必要はありません。 「今」リソースであればいいので、いつでも変わってもOK

身体の症状と付き合う

少し前に、とうとう新型コロナウィルスにかかってしまいました。 発熱と独特のしんどさが過ぎ、症状がようやく治まって回復した後、就寝中に、言葉では表現できない「妙」な感覚で何度も目が覚めてしまうという後遺症状?が出ました。 震えのような、身体がモヤモヤしたような、とても不快で耐え難い感覚。 寝たいし、この感覚は不快だしで、身体に緊張感が走ります。 何とかなくならないか…と思うわけです。 それで身体を動かしたり、さすったり。 でもふと、この「妙な感覚」に主導権をあげてみよう、という思いが出てきました。 あんまりにも妙なので、「この感覚は何がしたいんだろう?」というようなことを思ったわけです。 主導権を渡すというのは、実は結構難しいです。 自分に力が入っているのはわかりますし、どうしても「妙な感覚」のほうを追いやりたくなるので、入っている力を抜くことができません。 ですので、入っている力もそのまま、また「妙な感覚」もそのままにしてあげるよう意識を向けました。 「私が何とかしよう」というような意識ではなく、「妙な感覚」の微細な動きに興味をもって注目するような感じです。 「妙な感覚」とそれに抗いたくなる力とが拮抗している間がちょっと苦しかったのですが、その拮抗の山を越えると、「妙な感覚」がそのままでいる感じがしてきました。 そうすると、「妙な感覚」は不思議と自由になり、私の身体を通って抜けていき、スーッとなくなるのです。 「妙な感覚」は、その後数日続きましたが、コツをつかんだので、毎回拮抗の山を越えるまでちょっと四苦八苦しながらも、「妙な感覚」が自由に動けるようにするよう意識を向けました。 そのたびに、「妙な感覚」はスーッと通り抜けて行っていました。 ここで書いたことは、身体症状に対する対応や治療というような対処法的なことではなく、むしろその逆です。 ・興味を持つ ・その感覚や部分の好きにしてもらう/したいようにしてもらう ・その感覚や部分と一緒にいる どちらかというと受動的であるがまま。 このような自分のありかたは、心理療法で心にアプローチするときと同じです。 心理療法は身体症状を治療するものではありませんが、身体症状と自分との「付き合い方」へ取り組むことができます。 上に書いた「妙な感覚」を、「辛い気持ち」「怒り」「深い悲しみ」などに置き換えてみてもらうと、「付き合い方」は

よい感覚に留まる30秒

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カウンセリングセッションの中では、さまざまな感覚や感情が起きます(そのように進めていく心理療法のスタイルで行っています)。 カウンセリングに来られる方は、辛い気持ちや苦しい気持ちがあって、それを何とかしようとアクセスされるので、そういう「ネガティブ」なほうの気持ちは、比較的すぐに現れてきやすいのですが、 私が行っているアプローチでは、「ポジティブ」なほうの気持ちも同じくらい、 いえ、むしろ積極的に重視します。 ポジティブな気持ちとは、 満たされている感覚 誇らしさや自信、力強さ あたたかさや優しい感じ 大丈夫!とかホッとする安心感 これでいいのだと肯定する気持ち パワーやエネルギーの感覚 などがあります。 このようなポジティブな気持ちが現れてきたときはビッグチャンス! 私は逃しません(笑)。 その「よい」感覚や気持ちを味わったり、ただそのまま体験することを提案します。 「よい」感覚や気持ちは、必ず私たちの力の源になるからです。 この源をしっかりつくることや、力をいつでも感じたり使ったりすることで、「ネガティブ」なほうの気持ちも、より対処しやすくなっていきます。 また、良いものも良くないものも、全て自分の中で大切にしたり、自分のものとして統合していくことへつながっていきます。 ところが、ポジティブな感覚や気持ちを存分に味わうことが苦手な方は少なくありません。 良い感覚・気持ちをそのまま感じてみてください、と伝えると すぐに不安がもたげてきたり、いろいろな考えが頭に浮かんできたりして、 良い感覚・気持ちがあっという間にどこかへ行ってしまうということはよくあることです。 それは、慣れていないから。 あまり知らない感覚や気持ちが起きると、たとえそれが良いものであっても、「いつもの自分の状態ではない」ということが不安を引き起こすのです。 そして「いつもの自分の状態」に戻すように、身体や心が反応していきます。 それで、セッションでは「30秒味わってみませんか」と提案します。 たった30秒! でも、ちょっと数えてみてください。意外と長いんですよ~。 慣れていないと、30秒は長すぎて苦痛になったりします。 そういうときは10秒から。 そうして少しずつ慣れていって、30秒どころか、「良い感覚や気持ち」が満足するまで、「良い感覚や気持ち」が自然に進んでいくままに、好きなだけたっぷり味わ