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10月, 2024の投稿を表示しています

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ②

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「マインドフルな気づき」というのは、今、この瞬間瞬間に起きていることを、評価や価値判断なしに、ただ「ありのまま」に見ているという状態です。 「昨日、上司にミスをとがめられた」という場面を例にしてみましょう。 そのことを思い出すと、恥ずかしい気持ちで苦しくなるかもしれませんし、怒りでイライラしてくるかもしれませんし、不安で自信を感じられなくなるかもしれません。 きっと、その人によってさまざまな感情が湧きおこる出来事だと思います。 マインドフルな気づきというのは、この場面を思い出している今、この時において、「身体が固くなっているな」「心臓がドキドキしている」「手足が冷たいなぁ」「足が浮いているような感じ」というようなことに気づくことです。 恥ずかしいとかイライラなどの感情が出てきたら、「こんな気持ちが出るんだな」と思いつつ、その感情は身体でどんなふうに反応しているのか…と注意を向けていきます。 マインドフルな気づきがPTSD症状への取り組みに効果があるのは、このような注意を向けている間は、その症状に圧倒されてしまうことがないからなのです。 ですので、PTSD症状へ取り組む時には、このようなマインドフルな気づきの状態を維持していくということがポイントになり、そういう意味で「マインドフルネスはPTSD症状に役立つ」と言えます。 一方で前回にも書いたように、マインドフルネス状態を目指すトレーニングや瞑想は、PTSD症状を持っている人が適切なサポートがない中で行った場合には、その症状が現れ、圧倒されてしまうこともあります。 それは、気づきを向ける方向や、気づきの維持について、細やかに見ていく必要があるためです。 また、マインドフルネス瞑想やトレーニングの中には、「マインドフルネス状態へ至ることが目的になっている」ようなものもあったり、 トレーニング自体はそうでもないのだけれど、トレーナーが無意識にそう指向していたりするものもあって、 そういう場にいると、「マインドフルネスになれている/なれていない」というような思いを感じてしまうことも起きます。 「マインドフルな気づき」はPTSD症状への取り組みに役立つだけでなく、生活や生き方にも良い影響を与えてくれる、すばらしい仏教の叡智なのですが(というよりは、もともとPTSD症状や集中力を高めるためのものではなく、仏教の実践そのものです)...

マインドフルネスはPTSDに禁忌か? ①

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「マインドフルネス」はかなり広く知られる言葉になりました。 「マインドフルネスが不安やストレスを軽減する」という研究結果や実践の積み重ねがあり、「PTSD症状へのマインドフルネスの効果」についての研究もあります。 一方で、「マインドフルネスを行うとPTSD症状が悪化する」ということも言われています。 真逆の説明は、混乱してしまうでしょう。 いったい、どっち??? 先に結論から述べましょう。 マインドフルな気づきはPTSDに効果的ですが(症状としては現れなくなります)、マインドフルネスはPTSDを悪化させる場合があります。 もともとは、マインドフルな気づきや注意の能力が高まっていくと、PTSD症状の軽減やコントロールをもたらす、というものでした。 そこから、PTSD症状を軽減するためにマインドフルネスのトレーニングを行う、という方法が行われました。トレーニングによってマインドフルな気づきや注意の能力を高めていくことで、PTSD症状が軽減するという考え方、つまり逆方向の考え方で「トレーニング」が生まれたわけです。 マインドフルネス瞑想のトレーニングは、日々の積み重ねを何年も行うことで、マインドフルな状態へ移りやすくなったり、その状態が長く続くようになります(ヨギーがそういう状態です)。 「マインドフルネス」 「マインドフルネス瞑想」 「マインドフルな状態」 似たようなカタカナ用語が現れてきました!余計に混乱してしまうかもしれませんが、ここが注意どころです。 このような、似たような用語の意味するところが錯綜していることが、「マインドフルネスとPTSD問題」を混乱させているのではないかと思います。 マインドフルネスは、「 今ここでの経験に評価や判断を加えることなく注意を向けること」。 マインドフルネス瞑想は、そのような注意の向け方へと誘導していくことであり、その練習や実践です。 そして、今この瞬間に注意を向けている状態を、マインドフルな状態=マインドフルな注意の向け方が行われている状態、になります。 PTSD症状へのアプローチで重要なのが、3つ目の、「マインドフルな注意を向ける」ことです。 長くなりましたので、次回に続きます。

いじめられ経験の私を救い出す

子ども時代にいじめられたことがある方は、決して少なくないと思います。 私も、継続的であったり、大ごとになるまでではありませんでしたが、少なからずいじめの経験があります。同級生からも、先生からも。 嫌な感覚がよみがえるような出来事もあれば、「なんやの、あれ!」と相手を一笑に付せるぐらいの出来事もあります(私のストレートな感覚ではこの大阪弁なのはご容赦ください~!)。 いじめは、その時に辛かったり孤独だったりしただけでなく、多くの人に、その後の人生にも影響を及ぼす、とても強烈なトラウマ体験です。 さまざまな感情がひきおこされるような記憶ですし、身体的にもその記憶は残っていることが見られます。 身体には、無自覚な緊張感があったり、ちょっと硬直したような感覚や姿勢が現れたり、地に足があまりついてないようなフワフワした感じがあったりするかもしれません。 感情や行動では、対人関係での不安、自分への自信のもてなさ、距離をとって人と接していたり、逆に過剰に笑顔やフレンドリーさを維持していたり、 何より強烈なのは、自分自身に対する恥の感情です。 「いじめられていた自分」「いじめられるような自分だった」というような、自分自身の存在価値に関わる感情はとても強烈で、そのために、当時も、家族や先生、信頼できそうな友人に打ち明けることが難しかった人は多いと思います。 このような恥の感情はあまりにも強烈なので、私たちは普段、記憶に蓋をしていたり、覚えている出来事を遠くから眺めるような感じで語ったりします。 こんなふうにある程度「距離」をとって痛みの記憶に触れないでいられていること、 それは自分を守るすばらしい力です。 一方で、今の自分の、人間関係の難しさやしんどさ、気分の落ち込みなどに影響があるのではないかと感じているならば、 記憶を遠くに閉じ込めてきた力を尊重しつつも、あの時に辛かった自分を救い出しに行く時が今ようやくやってきてくれたのかもしれません。 あの時の、出来事の大小は全く関係ありません。 出来事が些細なことだったとしても、自分の中で残る衝撃は大きいということは普通にありますし、おかしなことでもありませんし、何より、それは自分のせい、自分の弱さや不甲斐なさのせい、なんてことは 全く ありません(強調しておきます!) それはあくまで、神経系の反応であり、その反応の記憶なのです。 カウンセ...

味わう ~マインドフルネスはここにある

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細い道路沿いのコインパーキングに駐車しようとしたとき、車の前に小学1年生ぐらいの女の子が歩いていました。 その女の子がいたので、切り返しができずにいました。 大雨が降った直後。道路に水たまりができていました。 女の子の足が急に止まりました。 女の子は、一心に水たまりを見つめ、それから、そーっと足を踏み入れます。もう一方の足も、そーっと踏み入れました。 水面がかすかに揺れながら波紋が広がります。 この、たぶん時間にしたらほんの1,2分ぐらいの出来事。 女の子が体験していた世界が、それを見ていた私にも伝わってきました。 水たまりを見つめる集中した感覚。 ゆっくりと足を踏み入れ、靴が水に触れていく感覚。 それを受けて水が動きを作り出すところ。 靴が水に及ぼしているものが全身に広がっていく。 カウンセリングの中では、意図的に、このような体験の時間へと進んでいきます。 実際に周りにあるものを使ったり、イメージの中だけで進めることもありますが、 集中して、ゆっくりと、そしてとても繊細に丁寧に、自分の身体、自分の内側で起こっていることをみていきます。 たったそれだけのことなのですが、とても豊かな体験の世界がそこにはあります。 そこで体験されること、そして、体験することそのものが、多くのこと、必要なことをもたらしてくれます。 ですから、どんな体験も、どんなことも全て起こっていることには「意味」があるのです。 女の子が水たまりを味わったほんの1,2分ぐらいの時間ですが、この女の子にとって、これがこの時にとても重要なことだったように、 そしてそれを(たまたま)見ていた私にも「豊かさ」を一緒に味わえたように。 「味わう」。 女の子はぴょんと飛び出し、その後はもうすたすたと歩いて行きました。 きっと、女の子はこの経験は過ぎ去り忘れていくでしょう。 でも、このように経験したということ自体は、女の子の「生」に積み重なっていくものだと私は思います。 カウンセリングも、毎回毎回起きる「生」を積み重ねていくものです。

「それは身体の叡智です」➂ ~身体志向の心理療法の特徴とは?

ボディ・ワーク(オステオパシー)の体験から始めたテーマの3回目です。 身体に働きかける、身体を重要視するという点で共通するボディ・ワークと身体志向の心理療法。 さて、心理療法のもう一つの特徴とは? ボディ・ワークに限らず、気持ちの良いことや健康に良さそうなことを行ったり、服薬をしたりしたとき、効果や変化を感じる(あるいは感じない)、ということが起きます。 心理療法で注目するのは、このような「気づき」自体です。 効果や変化を感じる/感じないということに気づくというのは、そこに注意が向かう「私」がいます。 それはどんな効果(変化)なのか? 身体はどのようにその効果(変化)を私に知らせてくれているのだろうか? こういったことに、ゆっくり、しっかりと注目していき、自分なりの言葉で表していきます。 効果・変化に気づき、それに注意を向け、その感覚に留まってみると、感覚はより明確になったり、また新たな感覚が起きたりします。 そういう移り変わりもまた重要な体験。 体験し、気づき、それを味わい、その体験を言葉にしてみる。 言葉にしてみて、その言葉がしっくりときたら、それをまた体験していく。 これを繰り返していくと、不思議なことに、「全体性」のような感覚が生まれてきます。 そしてそこに、「私」の本質的な体験の感覚が存在します。 心理療法の特徴は、このように、注意を向けること、それを体験していくこと、言葉にすること、 この繰り返しによって、自己感の体験を深めていくところにあります。 人間は、大きな大脳皮質を持ったことで、物事を言語やイメージで思考したり、記憶するという点に、他の動物との大きな違いがあります。 身体志向の心理療法は、身体で起きる体験を深めていくと同時に、その体験を認識的にも深めていき、それらを統合するというのが特徴になります。