これまで、自分自身の怒りの感情について書いてきましたが、今回は他者の怒りに直面したときについて書きます。 他者、といっても、いろいろな状況や関係性があります。 家族の怒り。 友人・知人の怒り。 職場の上司や指導者の怒り。 お客様の怒り。 通りすがりの人の怒り。 インターネット上の怒り。 これまでのブログで書きましたが、怒りの感情自体は、自然で理にかなっており、とても大切な感情です。 ですから、怒りが大切な感情である、ということをみんなのものにするためには、怒りの作法や共通ルールのようなものがあるといいのかも…。 この作法や共通ルールの前提として、怒りの感情と攻撃行為を分けることがあります。 怒りはOK。でも攻撃はNG。 他者の怒りを受けて耐え難くなるのは、攻撃を受けている状態だと思われます。 攻撃の形で怒りを表す人を相手にするのは、とても難しいことです。 なぜなら、攻撃のパワーに傷ついたり辛くなったりするだけでなく、攻撃する人はたいてい、攻撃を正当化することが多いからです。自分には怒る理由があるとか、怒るに相当することだからだと考え、その攻撃を正当化します。 そういう人を相手に、「怒りは聞きますが、攻撃は受けません」と言っても、すんなりとはいかないことのほうが多いでしょう。それどころか、攻撃がさらに大きくなる傾向があります。 「怒りの作法のようなものが必要なのではないか」と書いたのは、ここに理由があります。 つまり、怒ってもいい、でも攻撃はだめだ、ということがみんなの共通のものにならなければ、他者を攻撃する人の自己正当化は止まないからです。 さらに問題なのは、攻撃をする人は、攻撃ができる人、ということです。 攻撃ができる人というのは、力を持っている人。 社会的・経済的地位、男性性、年齢… 人に限りません。組織も国も、より大きい力を持っているから攻撃できるのです。 大きなレベルで平然と行われているのですから、問題は個人と個人の間だけではありません…。 とはいえ、前進もあります。 ハラスメントの言葉が浸透し、法制度ができたのは、攻撃は受け入れられないものだという社会的認識となりました(まだ途上ですが…)。 DV法や児童、高齢者、障がい者に対する虐待防止法、いじめ防止の法律も同様です。他者への攻撃はNOだという共通ルールです。 ヘイト・スピーチやインターネット上の誹謗中傷...