「恥」は自尊心との合わせ鏡
「恥」の感情について思い出すエピソードがあります。 娘のトイレトレーニングを本格的に始めたのが2歳の誕生日のころでした。夏生まれの子なので、スタートするのにちょうどよい季節だと思ったのです。 オムツもパンツも取ってみる(要するにほぼ裸)、トイレトレパンツ(分厚く布が重ねられたトレーニング用パンツ)をつけてみる、あるいは、オムツをつける(うちは就寝時以外はオムツも布でした)、いろいろな時間を過ごしていました。 オムツのときは、布ですからオシッコで濡れたのはわかるはずなんですが、「オシッコ出たー」とすぐ言わないことがほとんどでした。 特に遊びに夢中のとき。気持ち悪いだろうと思うんですが、子どものあの遊びへの集中力はすごいです。まさに全集中。 でもトイレトレパンツのときはすぐに言いに来ていました。オムツじゃなくてパンツをはいてるんだというのはちょっと誇らしいことのようでしたし、「オシッコに気を付けないといけないんだ!」と自分でも思っていたようでした。 他の人がいるときに「漏れちゃった」と自分で気づいたときは、バツが悪いような、恥ずかしそうな様子をしていました。なので、ササッと別の場所にいって、パパッと着替えました。 「恥」の気持ちって、こんな小さいときに、こんなふうに現れるんだと思ったのをよく覚えています。 保育所のベテラン先生も、「そういう時は大勢がいる前で『漏れた』と言ったり、着替えを強行しないほうがいいのよ」、と言っていました。もう「恥ずかしい」って気持ちがあるんだから、と。周りの大人は、子どもが示す「恥ずかしい」という様子を、しっかりとキャッチしてあげないといけないと話していました。 さらに成長してくると、「恥」はもっとはっきりしてきます。知らない人の前であいさつできずに、もじもじしたり、後ろに隠れたりする。 いつも元気いっぱいなのに、発表会では急に固まって後ろの壁にへばりついている。 だんだん、不安感や緊張感と合わさって現れてきているようです。 こういう態度の方が実は「恥ずかしい」ことだとみなされますが、小さいころは、そしてその後もしばらくは、自分の中の恥の感覚でいっぱいいっぱいになって、それがどう「見られることなのか」という他者からの評価まで追いつかない様子です。 そして、その評価に合わせて、あるいは、自分自身をしっかり感じながら、状況の中で自分を調整すること...