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たった1つの「欲しい」が叶うこと(「猛スピードで母は」「サイドカーに犬」から)

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長嶋有さんの「猛スピードで母は」には2作収納されています。 2001年の芥川賞受賞作で、もう1編は「サイドカーに犬」。こちらは映画でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。 どちらも味わい深いお話なので、物語はぜひ読んでいただけたらと思いますが、ここでは2つの作品に共通する1点を取り上げたいと思います。 それは、「欲しい」という気持ちについて。 前半に掲載されている「サイドカーに犬」の小学4年生の主人公・薫は、喧嘩の絶えない両親を持ち、母が出て行ってしまいます。 入れ替わりに、父の愛人の洋子さんが家にやってきました。 サッパリ、サバサバした性格の洋子さんがスーパーへ買い物に薫を連れ出します。 菓子売り場で洋子さんは振り向いて  『「なんかほしいものない」といった。私はどきどきした。』 薫は、何かをねだるのが苦手でした。  『やっとのことで、麦チョコを、といった。』 「猛スピードで母は」の主人公・慎は、シングルマザーの母親と二人暮らし。生活に追われる母は家を不在にすることが多く、小学6年生の慎は、団地で一人で過ごすことも多くありました。 忙しい母の顔色をうかがい、学校でも寡黙に過ごす慎。 そんな中、祖父の看病のため、母と二人、祖父の家と自宅を車で往復する生活が始まりました。 ある早朝、母は出勤、慎は登校するために、祖父の家から自宅の団地まで戻ってきたものの、家の鍵と一緒に車の鍵も車内に残してドアを閉めてしまいます。学校の鞄も何もかも家に置いたまま、入ることができません。 母は「仕方ないからそのまま学校へ行きなさい」と慎に言いますが、慎は珍しく抵抗します。 母にも誰にも言っていなかったのですが、慎はクラスメートからいじめをうけており、その日は大切な本を持ってくるよう命令されていたのです。 「手提げがないと学校へ行けない」、慎はおずおずと言います。 あきれながらも理由をそれ以上聞かなかった母は、「わかった、もう」と言って、団地の壁の梯子を4階まで登り始めました。 薫も慎も、親は自分の生活と自分の気持ちで精一杯。二人は、子どもを情緒的に満たすことができない親の元で育ち、親の顔色をうかがいながら、自己主張を抑えこむ子どもでした。 二人の「こころ」は親からは透明にしか見えなかったか、「こころ」まで視線が届かなかったよう。 そうすると子どもは自分の「こころ」を外に出すことはで...

同じものを共に見る

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私の50mほど前を歩いている人がいました。 彼はふと立ち止まり、しゃがみこんでスマホで写真を撮り、また歩き出しました。 彼が立ち止まった地点に私が辿り着いたら、そこにはこんな花が咲いていました。 コンクリートの割れ目から咲く花。 可憐だけれどたくましさを感じ、ステキだなぁと思いました。 そして、私もシャッターを切りました。 同じものを見て、同じように手が動いて写真を撮る… そのことに、じんわりと心があたたまりました。 「共同注視」は、同じ空間の中で同じものに注意を向けることを意味します。 これは子どもの成長とともに現れてきて、他者との関係をつくる上で重要な機能をはたします。 注意を向ける対象を共有することで、より複雑なコミュニケーションが行われるようになり、より複雑な理解が可能になっていきます。 前を歩いた男性と私は、この花を同じように見て、何かを感じ取る、ということが起きました。 ほんの小さな、取るに足りないような瞬間、これが私を世界につなげ、私が世界の中で生きていることの実感へとつながっていきます。 カウンセリングで行うのは、この「共同注視」の作業と言えます。 クライエントさんが抱えるテーマ、クライエントさんが感じる様々な思いや感情、クライエントさんの中にいるいろいろなクライエントさん。 カウンセリングを始めたころは、クライエントさんはこれらを一人で抱え、そのためもあって、自分自身と一体化しています。 それを少しずつ切り離しながら、クライエントさんとカウンセラーの、「私たちのもの」として一緒に見ていきます。 この「共同注視」の状態にまで至ると、カウンセリングはグッと進み深まっていきます。 それはまるでこの写真の花のようなのです。 コンクリートの割れ目から萌え出た花。 (クラエイントさんの内側に)隠れていたものが現れてくるとき。 クライエントさん自身も見て、感じることができるし、私が見て感じていることを、クライエントさんが知ることができます。 それはすでにコンクリートの下にあったもの。 それを一緒にみつめる、そういうプロセスです。

「涵養」を「こころ」にイメージしてみると…

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前回のブログで、「涵養」について書きました。 涵養とは、水が土に浸み込み、地下水の層まで渡ること。 涵養のプロセスに登場するのは、 土(大地) 水 地下水 雨(または水やり) これを「こころ」に重ねる場合、これらすべてが「私」として現れてきます。 でも、表立って意識されるのは、大地だったり地下水の層の部分の「私」であることが多いのではないでしょうか。 「心が乾いてカラカラ」 「心の奥深くの泉が枯れてしまっている」 といったように。 自分を満たし、渇きを癒やしてくれる水を求めて探し回ってきたり、 誰かが恵の雨を降らせてくれないだろうかと祈ったり、 残った水が蒸発しないように、なんとか踏ん張ったり… 辛い状態の「こころ」をイメージするなら、こんなふうに表現されるかもしれません。 でも、「こころ」については、もう一歩踏み込んで見ていきます。 カラカラに乾いた土(こころ)は、乾ききってしまうまでの年月がありました。 今となってはきっと、簡単に水を浸透させない理由があることでしょう。 地下水は、心の奥深く。 誰にも触れさせない部分かもしれません。 水は自由に動くようでいて、高いところから低いところへと流されてしまうこともありますし、留まると淀んでしまうこともあります。 雨(水やり)は、やりすぎもやらさなさすぎも良くありません。 時間もタイミングも量も大事。 自分の中にあるいろいろな自分が、それぞれの立場や役目を持って、 それぞれの思いや歴史を抱えて存在します。 自分というこの「場所」の、今この時に、一番よさそうな状況をつくっていくために、 それぞれの自分が適切なかたちで共にいられるように。 自分の「こころ」を、こんなふうに何かにイメージするとわかりやすいかもしれません。