「恥」を誇り(プライド)に変える
今年はコロナ禍を経て久しぶりにプライド・パレードが世界の各地で開催されましたね。 私は 20 年ほど前にカナダのトロントでこのパレードを見ました。カナダは移民国家ですが、私が滞在していた時に、トロント市の移民一世の人口が初めて半数を超えたというニュースに、町の人たちが歓喜したなど、多様性にオープンな都市です。ダウンタウンには通称「ゲイ・ストリート」(当時の呼称。今はどうなんでしょう?)があって、 LGBTQs の人々が集っていました。 そのトロントでのプライド・パレード。すごいです。今年の映像はこちら。「お祭り騒ぎ」という言葉がぴったり、活気にあふれ、参加する人も見る人もめちゃくちゃ盛り上がる楽しいパレードです。 私はプライド・パレードの「 pride 」という言葉が好きです。 胸が熱くなる感じがします。 日本語の否定的なニュアンスは全くなく、「誇り」という言葉そのものです。 性的少数者が生きづらく感じる理由の一つは、周りの人々や社会が持つ「恥」が、自分の中にも取り込まれていることです。 というよりも、「恥」は、周囲の人や社会が考える受け入れがたいこと、よくないこと、「普通」じゃないこと、という価値観を心の中に浸み込ませ、こびりつかせてしまう猛烈なパワーを持っています。 多数者や力をもつ人がこのパワーを使うのはこのためです。無意識にも意識的にも使って、自分の価値観を維持する環境をつくっています。そうすると、自分は変わらなくていいし、自分にとって居心地がよい環境を維持できますから。 だから少数者のほうが取り込んだんじゃなくて、取り込まされた、浸み込まされた、という言い方の方が正しいと思います。 この恥のパワーのやっかいなところは、恥が内面化されてしまうと、自分自身が恥ずべき存在なんだという価値観を信じこんでしまったり、違和感や居心地の悪さを感じていても、自分の中にある「恥」を、外に追い出すのがとても難しいことです。 これが、深刻な精神疾患(抑うつや不安など)の原因であったり、人間関係の困難を引き起こすだけでなく、自殺の要因ともなることが研究でも示されています。 前回の記事で、恥と孤独の関係について書きました。 自分の周りが、自分自身を否定するような言葉と視線に満ちあふれいているとしたら、自分を、自分の「恥」をさらけ出すことができ...