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カウンセラーとの相性についての再考

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以前、「 カウンセリングが合わないとき 」というタイトルで記事を書きました。 同じ趣旨ですが、ちょっと違う書き方で取り上げたいと思います。 というのも、「カウンセラーとの相性」問題はとても重要だからです。 「 うつを生きる 」は、アベノミクスのブレーンでもあった経済学者の浜田宏一氏と小児精神科医の内田舞氏の対談本です。浜田氏は長らく躁うつ病を患ってきました。 こちらの本で、内田氏がこんなふうに話していました。 「心理療法は大きなカテゴリーとして認知行動療法と、力動学的心理療法に分けられます。それぞれに患者さんごとの向き不向きや、セラピストと患者さんの相性の良し悪しの影響はあるものの、どちらも効果はあります。」 これは一般的な見解ですし、精神科医らしい見解でもあると思いながらこの一言を読みました。 内田氏はアメリカで精神科医療を行っているそうですが、アメリカでも心理療法は、認知行動療法と力動学的心理療法に大別できないほど多種多様な心理療法があり、私が行っているような身体志向や体験的な心理療法も盛んにおこなわれています。 さらにそのような傾向もあって、認知行動療法と力動学的心理療法というような分類ではなく、統合的な心理療法へと発展していっているのが現在のトレンドのようです。 そのような中、「相性」は、心理療法として重要な要素として扱われるようになっています。 というのも、体験的な心理療法は、相性を合わせていくプロセスそのものが心理療法としての効果と大きくリンクしているからです。 これは「波長合わせ」といいます。 クライエントさんの体験が深まっていくプロセスでは、必ず、セラピストとの波長が合っています。逆に言うと、波長が合っていないときは体験が深まりません。 ですので、「波長合わせ」が、カウンセリングを開始した初期段階や、毎回のセッションでの初めの時間帯において必須になるのです。 それでも「相性」があるとしたら、最初から波長合わせがすんなり上手くいくクライエントーセラピストの関係性がたまたまあったということであったり、よりスムーズに波長合わせが起きやすいクライエントーセラピストの関係だったり。 そういう点では「相性」と言えます。 それでも「波長合わせ」は、数回のセッションを経て合ってきたり、しっかりがっつり合っていなくても、合っている瞬間が訪れたりして、次第に波長が合って...

カウンセリングでの「怒り」の扱い方

前回 の続きです。 「怒り」という言葉で感じられない場合であっても、身体にはしっかりと何かが生じています。 例えば、ほんの一瞬、わずかに、 筋肉が緊張したり、 胃がギュッとする感じが起きたり、 眉間に力が入ったり、 呼吸が一瞬止まったり、 というような身体の「反応」が起きていたり、 胸に「モヤ~」とか「ザワ~」という感じがあったり、 自分がその場から浮いていたり離れているような感じがあったり、 胃が重たい感じがしたり、 というようなイメージ的な感覚があったりします。 これらは一瞬で、微細で、ごくわずかな感覚であることもあり、 それを意識してとらえるのは難しい場合は多くあります。 カウンセリングでは、こういうわずかな感覚こそ注目していきます。 「身体―主体―私」の全体にとって大切なのは、身体、知覚すること、それが私であるということが、一連のものとして体験されていくことです。 そうすると、「私」は、このような身体の状態を「怒り」という言葉で表現するかもしれませんし、違う言葉で表現するかもしれませんし、言葉ではなくイメージを展開したり、身体の動きを伴っていったりするかもしれません。 「怒り」を身体の反応として見ていくと、「怒り」にまつわる不安や恐怖、恥、嫌悪感などを強く感じずに扱うことができます。 カウンセリングではこんなふうに「怒り」を扱うわけです。 ですが、それでも不安や恐れはつきもの。 次回はそれについて書きます。

「怒り」を感じるために必要な「主体」についてのお話

今回も「怒り」について書いてみようと思って過去のブログを振り返ってみたら(「怒り」のタグ)、これまで11回書いていました。 でもまだ書こうと思ったのは、「怒り」はやはり重要な感情であり、また同時に難しい感情でもあるからです。 先日同業の方が、長く続けているクライエントさんに主体が現れてきたら、セラピストへ(その同業の方へ)怒りが向けられてきたということを話していました。 これはとても興味深いことだと思いました。 怒りの感情が現れるには、怒りを「怒り」として認識する「主体」が必要なのです。 人の発達段階で怒りの感情が生まれるのは生後4か月~12か月ごろではないかという研究があります。(しかしあまり明確にはわかっていないようです。) 赤ちゃんの時からすでにある感覚や感情としての怒り。 しかしそれを知覚し、認識し、言葉にし、表したり伝えたりするには、まだ長い発達段階を経なければなりません。 そのプロセスにおいては、他者(特に養育者)との関りが重要になりますし、周りの人々が怒りに対してどのような価値を持っているか、つまり怒りに対する文化的価値に大きな影響を受けます。 一方、近年注目を集めている感情の構成主義理論という研究によると、感情は生得的にあるものではなく、環境との相互作用によって、経験的につくられ、学習されていくものであるとされます。 自分の身体で起きている様々な生理的、神経的反応と、それに関連する他者の表情や言動などとの結びつきによって、自分の身体的反応は「怒り」という言葉で表されるものだと学習していく、という理論です。 「私」が「私である」と感じること、そのような「私」を自己といいますが、その最も基盤となるのが身体です。 私は私の身体を持っている、これは私の身体で起きていることであると、無意識レベルから意識レベルまで知覚していることによって、「私」は「私である」と経験していきます。 そして、知覚し、行為している身体を「主体」といいます。 主体(=身体)が知覚し、行為し、そうして「私」という認識がつくられていくのです。 👆は膨大な理論をギューッとまとめてしまっているので、大雑把すぎる上にわかりにくいかもしれません。すみません…。 怒りについて取り上げると、その時に身体で起きた生理的な、神経的な反応状態があります。 そこにはすでにそれを知覚する「主体」(からだ)はあ...