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カウンセリングでの「怒り」の扱い方

前回 の続きです。 「怒り」という言葉で感じられない場合であっても、身体にはしっかりと何かが生じています。 例えば、ほんの一瞬、わずかに、 筋肉が緊張したり、 胃がギュッとする感じが起きたり、 眉間に力が入ったり、 呼吸が一瞬止まったり、 というような身体の「反応」が起きていたり、 胸にモヤ~とかザワ~っという感覚があったり、 自分がその場から浮いていたり離れているような感じがあったり、 胃が重たい感じがしたり、 というようなイメージ的な感覚があったりします。 これらは一瞬で、微細で、ごくわずかな感覚であることもあり、 それを意識してとらえるのは難しい場合は多くあります。 カウンセリングでは、こういうわずかな感覚こそ注目していきます。 「身体―主体―私」の全体にとって大切なのは、身体、知覚すること、それが私であるということが、一連のものとして体験されていくことです。 そうすると、「私」は、このような身体の状態を「怒り」という言葉で表現するかもしれませんし、違う言葉で表現するかもしれませんし、言葉ではなくイメージを展開したり、身体の動きを伴っていったりするかもしれません。 「怒り」を身体の反応として見ていくと、「怒り」にまつわる不安や恐怖、恥、嫌悪感などを強く感じずに扱うことができます。 カウンセリングではこんなふうに「怒り」を扱うわけです。 ですが、それでも不安や恐れはつきもの。 次回はそれについて書きます。

「怒り」を感じるために必要な「主体」についてのお話

今回も「怒り」について書いてみようと思って過去のブログを振り返ってみたら(「怒り」のタグ)、これまで11回書いていました。 でもまだ書こうと思ったのは、「怒り」はやはり重要な感情であり、また同時に難しい感情でもあるからです。 先日同業の方が、長く続けているクライエントさんに主体が現れてきたら、セラピストへ(その同業の方へ)怒りが向けられてきたということを話していました。 これはとても興味深いことだと思いました。 怒りの感情が現れるには、怒りを「怒り」として認識する「主体」が必要なのです。 人の発達段階で怒りの感情が生まれるのは生後4か月~12か月ごろではないかという研究があります。(しかしあまり明確にはわかっていないようです。) 赤ちゃんの時からすでにある感覚や感情としての怒り。 しかしそれを知覚し、認識し、言葉にし、表したり伝えたりするには、まだ長い発達段階を経なければなりません。 そのプロセスにおいては、他者(特に養育者)との関りが重要になりますし、周りの人々が怒りに対してどのような価値を持っているか、つまり怒りに対する文化的価値に大きな影響を受けます。 一方、近年注目を集めている感情の構成主義理論という研究によると、感情は生得的にあるものではなく、環境との相互作用によって、経験的につくられ、学習されていくものであるとされます。 自分の身体で起きている様々な生理的、神経的反応と、それに関連する他者の表情や言動などとの結びつきによって、自分の身体的反応は「怒り」という言葉で表されるものだと学習していく、という理論です。 「私」が「私である」と感じること、そのような「私」を自己といいますが、その最も基盤となるのが身体です。 私は私の身体を持っている、これは私の身体で起きていることであると、無意識レベルから意識レベルまで知覚していることによって、「私」は「私である」と経験していきます。 そして、知覚し、行為している身体を「主体」といいます。 主体(=身体)が知覚し、行為し、そうして「私」という認識がつくられていくのです。 👆は膨大な理論をギューッとまとめてしまっているので、大雑把すぎる上にわかりにくいかもしれません。すみません…。 怒りについて取り上げると、その時に身体で起きた生理的な、神経的な反応状態があります。 そこにはすでにそれを知覚する「主体」(からだ)はあ...